『ミレニアム』作家が遺した最強ヒロインと遺稿論争
作中人物でサランデルの唯一の理解者が、社会派ジャーナリストのミカエル・ブルムクビストだ。作者自身にイメージの重なるブルムクビストは、政治誌ミレニアムの発行人。危険なターゲットにも果敢に挑む。
ラーソン自身、90年代半ばにエクスポ誌を創刊し、ネオナチや極右勢力と闘った。殺すと脅迫されることは日常茶飯事だった。国民の尊敬は集めたが、生活はいつも苦しかった。
ラーソンはスウェーデン北部のウメオに生まれた。何もない小さな町だったから、少年時代はひたすら書いていた。タイプライターの音が近所迷惑にならないように、地下室をあてがわれたほどだ。
両親が10代でラーソンをもうけたため、彼の面倒を見たのはもっぱら母方の祖父だった。祖父は共産主義者で、第二次大戦中に抑留された人物。10代後半になって故郷を離れる頃、ラーソンの心には書くことへの情熱と理想主義がしっかり根付いていた。
第4部の草稿はあるが
ラーソンと建築家のガブリエルソンは、知識人らしい暮らしを送っていた。2人とも文字どおり本に埋もれていた。『ミレニアム』シリーズの魅力の1つは、細部をたどるうちにラーソンの多様な興味が浮かび上がることだ。例えば政治であり、国際問題であり、コンピュータである。「政治だろうとインターネットだろうと、分からないことをほうっておけない人だった」と、ガブリエルソンは言う。「毎日言ってたもの。『ねえ、今日分かったことはね......』って」
そんなラーソンがまったく興味を示さなかったのが、食べることだ。『ミレニアム』3部作の登場人物は、まともな食事をしない。これは作者の食生活の表れのようだ。ラーソンは酒こそあまり飲まないが、口にするものといえばピザにケンタッキーフライドチキンにコーヒー、そしてタバコ。彼の死は「アメリカ的」な死だった。
「こんな生活を続けていたら長くないことは、彼にも分かっていた。だから、保険をかけるみたいにミステリーを書いた」と、エクスポ誌の現編集長ダニエル・プールは言う。「まとまったカネが入ったら引退するつもりだったろう」
けれども、ラーソンが金持ちになることはなかった。ガブリエルソンにも大金は転がり込みそうにない。2人は法的には結婚しておらず、ラーソンは遺書を残していなかった。ガブリエルソンによれば、2人が正式に結婚しなかったのは脅迫が彼女に及ぶのをラーソンが恐れたからだ。
2400万ユーロを超え、今も増え続けているラーソンの遺産は、ウメオに住むラーソンの父エルランドと弟ヨアキムが相続した。2人は遺産の一部でスティーグ・ラーソン賞を設立。極右と闘う団体に、毎年2万ユーロを授与している。初回の受賞者はエクスポ誌だった。
ガブリエルソンは、自分はラーソンの事実上の配偶者だから、遺産を相続する権利があると考えている。それを許さないスウェーデンの法律の改正も訴えている。
ガブリエルソンとラーソン家は、いま音信不通だ。だが第三者によれば、ラーソン家側は遺産分与について話し合う用意があるという。
ガブリエルソンは、カネが欲しいわけではなく、筋を通したいだけだという。「黙っていることもできるけど、そうはしたくない」と、『スティーグ去りし後』という本を執筆中の彼女は言う。「いつもスティーグに言われてた。なんだって君はハイウエーを走れるときに、でこぼこの狭い道をわざわざ行きたがるんだ、って」
騒動のなかで見逃せないことがある。ラーソンが『ミレニアム』シリーズの第4部として、300ページ近い草稿を残していることだ。著作権を相続したのはラーソンの父と弟で、第4部を出版する意向はない。だが、実際に草稿を保有しているのはガブリエルソンだ。
ガブリエルソンによればラーソン家側は、ラーソンのパソコンを引き渡すことを条件に、彼と住んでいたアパートに住み続けていいと言ってきた。だがガブリエルソンはパソコンを渡すことは拒否し、今も同じアパートに住んでいる。
「みんな第2のラーソンを探している」
北欧、とくにスウェーデンのミステリー小説は昔から陰気なものが多い。ミレニアム3部作も例外ではない。「北欧のミステリーブームがしぼんできたところに、ラーソンが登場した」と、スウェーデンのミステリー作家、ホーカン・ネッセルは言う。
ミステリー小説にはお国柄が出る。アメリカの探偵は皮肉の効いたせりふが魅力で、イギリスは謎解きが得意。しかし、北欧の刑事や探偵は違う。社会悪と闘うことに何の意味があるのかと悩み、犯罪者を生み出す社会のほうが悪いと考える。たいてい離婚歴があって、無精ひげを生やしている。「(主人公は)陰気で自滅的と決まっている」と、ネッセルは言う。彼の作品の主人公フェーテレン刑事部長も、いかにも北欧的な性格。考え方が古く、他人に共感できないタイプだ。
ラーソンの3部作も、北欧ミステリーの不文律を踏襲している。犯人が誰であろうと、本当の悪は世の中に巣くう思想だとされる。例えばナチズム、性差別、人種差別などだ。
ラーソンのおかげで、スウェーデンのミステリー作家には世界市場への扉が開かれた。スウェーデンの作家リサ・マークルンドは、アメリカのベストセラー作家ジェームズ・パターソンと共同で小説を執筆している。
弁護士から転じたスウェーデン人作家のイエンス・ラピドスは、06年の『一獲千金』でブレイク。10年夏にはアメリカで翻訳出版が決まっている。ホーレ刑事シリーズで人気を呼んだノルウェーのヨー・ネスベーも、注目の新人だ。「最近はアメリカやイギリスの出版社と電話1本で簡単に話をつけられるようになった」と、出版社ノーステッツのエバ・イェディンは言う。「みんな第2のスティーグ・ラーソンを探している」
だが、ネッセルは冷静だ。「20年前にスウェーデンは、偉大なテニス選手をたくさん送り出した。でも今は1人もいない」と、彼は言う。「ここ5年ほどはミステリー作家をたくさん生んだが、消えていくのは時間の問題だ」
これもスウェーデン的な悲観主義なのだろう。
[2009年8月12日号掲載]