ニューヨークのゲイ社会劇が、ニューヨークでウケない理由
Many Ghosts, No Soul
涙なしには見られないが
そもそもの間違いは『ハワーズ・エンド』をべースにするというコンセプトだろう。『ハワーズ・エンド』は長さも話の広がりも壮大な叙事詩には程遠い。抑制の利いた文体と詳細な人物描写が持ち味で、三人称で書かれた文章がその魅力を引き立てていた。
2度の映画化ではカメラワークによって行間の意味が映像化され、小説の魅力が体現されていたが、舞台ではそれは望めない。しかも今回は、ナレーションによる解説が多用される。
舞台上で言葉よりも雄弁に語るのは役者の演劇的な動きだ。演劇的な動きの定義は難しいが、その技を磨くために俳優志望者が必ず行う訓練がある。登場人物の一つ一つの動作やせりふについて、その意図を解き明かし、簡単な表現に言い換えることで理解を深めるトレーニングだ。
しかし『インヘリタンス』ではそうした動きを積み重ねる代わりに、小説の文学性ばかりが強調される。しかも、観客の見ている物語が実は登場人物がずっと先の未来に書いた自伝小説という設定で、観客は舞台の上で小説が書かれる様子を眺めることになる。
事件の推移や登場人物の心情の大部分を第三者によるナレーションで説明する手法自体は目新しくないが、成功例はほぼゼロ。役者の動きなしには緊張感が生まれず、会話も盛り上がらない。しかも普通の会話の場面でさえ、役者の動きは「話す」ことが中心だ。そのため1幕の最後でウォルターがエリックにエイズ危機の様子を語って聞かせる場面も、せりふは美しいが冗長な一人語りに終始している。
その後、ウォルターがエリックにゲイの友人の名前を列挙させ、エイズ危機の時代だったらほぼ全員が死んでいただろうと語る場面が続く。だがエリックが当時の状況を理解していないとは考えられず、一人語りの場面と同じくエリックのためというより観客に向けたせりふに聞こえる。
『インヘリタンス』がストレートの人に向けて書かれた作品だと批判されがちな背景にも、そうした点があると思う。批判の是非はともかく、登場人物に寄り添うことなく人類学的に分析するだけに終わっている感があるのは事実だ。
未来の世界から現在を振り返って書かれた小説という設定のため、今のアメリカ社会についても、まるで外国のように丁寧に説明される。だからこそ、アメリカが実際に外国であるロンドンでは人気を博したのかもしれないが、ニューヨークでこの舞台を見ると、自宅の近所について書かれたガイドブックを読まされているような気分になる。
世界を変える力がある?
それでも、エイズ危機についてエリックがウォルターに語った言葉には、作品の真の狙いが潜んでいる。それは、かつてエイズが猛威を振るった時代と、年配の世代がエイズと社会的偏見によってほぼ死に絶えた2016年という2つの時代に、若いゲイ男性として生きる感覚を観客に追体験させること。この点については見事に成功している。観客は皆涙を流しており、筆者のように作品に批判的な人でさえ涙を抑えられない場面が一度はあったはずだ。
主役にもかかわらず、なぜかエリックの悩みは、カネがないとか、トビーに振られたといった表面的なものばかり。ドラマチックな問題と言えば、自分の能力を理解していないことくらいだ。しかし劇の冒頭で、エリックは「極めて勇敢で、想像をはるかに超える形で世界を変える力がある」という説明がなされる。
これが伏線となり、作品と観客との間にある種の約束が生まれる──脱線の多い長丁場の舞台だが、いずれこの若者が本領を発揮して素晴らしい未来をつくってくれる、と。
だが彼の活躍には時代を変えるほどのインパクトはない。裕福な元夫から家を受け継ぎ、元婚約者の文芸作品の遺言執行人となり、やがて結婚し97歳で永眠するまで「多くの人々を導く長老のような存在」だった(と説明される)。
世界を変えるには程遠い、保身と安定と不動産を愛する中流階級の夢そのもの。そんな人物にこの壊れた世界を立て直すことなど期待できない。
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[2020年1月28日号掲載]