「主婦」を自称したがるペイリンの魂胆
歴史をさかのぼれば、「主婦」とはもともと、料理や掃除、子供の世話をする女性だけを指す言葉ではなかった。エバーグリーン州立大学のステファニー・クーンツ教授によると、経済活動の大半が家内工業や農業だった17〜18世紀は、いわば夫が社長、妻が副社長の役割を担っていた。妻の仕事に求められたのは、家庭で作ったものを市場で売りさばき、巧みな値段交渉で儲けを出す能力だった。
「ママ・グリズリー(母グマ)」を自称するペイリンやその仲間たちは、この昔の女性の役割を利用して、家計をやりくりする自分たちなら国家予算もお手の物だと主張している。
男性が家庭の外で働き始めた19世紀には、主婦の仕事は夫が安らげる家庭を作ることに変化していったと、クーンツは言う。ベビーシッターや家庭教師もいることはいたが、子供に愛情を注いだりしつけを行うことは主に主婦の役割になっていった。
女性は家庭に留まることで、カネ儲けの世界に汚されることなく働く夫を支えることができた。これが、ペイリンが「主婦」という言葉を使うときに思い描いているイメージだろう。純粋で家庭的で、新聞で読むような汚い社会とは一線を画した存在──。ペイリンの生き方がこれに当てはまらないことは言うまでもない。
そもそも「主婦」という語が時代遅れ
フェミニズムの教祖的存在であるベティ・フリーダンは、63年の著書『新しい女性の創造』(邦訳・大和書房)のなかで、ホームドラマコメディー『うちのママは世界一』で女優ドナ・リードが演じたような良妻賢母の理想像を論破した。これに対し、保守派は主婦や結婚、子供をもつことについての価値観を守ろうと動き出した。
しかし、女性は外で働くべきではないという50年代の価値観は、現在では時代遅れ過ぎて、保守派の間でさえ受け入れられるものではない。06年には25〜54歳の女性の約75%が職に就いていた(求職中も含む)。50年代後半は、この数値が40%だった。
もしペイリンが主婦を自称することでリベラルな女性たちにけんかを売っているつもりなら、言葉選びを間違っている。「アラスカ出身の母親」なら共感を呼んだかもしれないが、「主婦」はまったくもってそぐわない。この言葉の響き自体、もう時代遅れであり、政治に利用できるものでもない。
「主婦」という語が番組名に使われているのも、なかば風刺的な意味合いを込めたもの。そんなリアリティー番組に出ている主婦の中には、オーラルセックスを楽しむために膣の中に砂糖を入れろとアドバイスする、ちょっとおかしな女性までいる。
現実世界では、ジョーク以外に「主婦」を自称する女性なんてほとんどいない。今の世の中で文化戦争を仕掛けたいなら、「主婦」ではなく「母親」を使うべきだ。