美学者が東工大生に「偶然の価値」を伝える理由──伊藤亜紗の「いわく言い難いもの」を言葉にしていくプロセスとは
──それぞれ異なる世界にいる者同士が、互いに共通する表現を探しながら、言葉にされてこなかったものを見いだしていく作業ですね。
伊藤:ある意味無茶ぶりインタビューですよね。天ぷら定食とフォルダの話も、理解するのに50分はかかったと思います。
無意識の行為を言語化するのは本当に難しい作業です。「どうやって想像してますか?」と聞いただけでは「いや....想像してません」で終わってしまいますから。でも、その人ならではの何か、は必ずある。時間をかけて、しつこく探り当てていきます。
そのくらいまでやらないと、相手も、わたしの期待に沿った答えを用意してしまうかもしれない。ありがたいのですが、わたしはその人が意識的に語れることを聞きたいわけではありませんから。
その人が問われて初めて、「それ、考えてもみなかったな」というところから一緒に言葉を探していくという作業がやっぱり面白いし、そこには「本当」がある感じがします。
──天ぷら定食の話を聞いて、以前本で書かれていた、人とのかかわりあい方についての「情報ベース」と「意味ベース」の対比を思い出しました。
伊藤:「視力」で説明すると、数値化された「0.01の視力」は「情報」です。でも、同じ0.01の視力でも、一人ひとり「意味」が違うわけです。
ここでいう「意味」は、その人の「体験」と言い換えると分かりやすいかもしれません。同じ0.01でも、全体が黄色っぽく見える0.01や、天気によって見え方が違う0.01もあるでしょう。単純に視野が狭いというのもあるだろうし。数字にしてしまうと同じなんですが、実際はそれぞれ異なる体験をしている。
「情報」は対象をコントロールしやすくなりますし、科学は基本「情報」をもとに探究していきます。でも、そもそも「身体」というもの自体、人間がコントロールしきれないものですよね。そういう意味で、様々な人たちから身体の話を聞くことは、自然を見ている感じがするんですよね。空を見上げて雲が流れゆくのを淡々と眺めるように、身体に何が起こるかを淡々と見ていく。
そこに評価を与えた瞬間に、人間の側に引きつけてしまう感じがするので。
特に障害の問題は「可哀想」「支援しなきゃ」という思いが、つい最初に来てしまうことがある。そうした感情より、まずはニュートラルに見ようとしたほうが、相手も自分もラクですし、お互いの「違い」に、興味をもって関われる感じがします。
情報ベースでつきあう限り、見えない人は見える人に対して、どうしたって劣位に立たされてしまいます。そこに生まれるのは、健常者が障害者に教え、助けるというサポートの関係です。福祉的な態度とは、「サポートしなければいけない」という緊張感であり、それがまさに見える人と見えない人の関係を「しばる」のです。もちろんサポートの関係は必要ですが、福祉的な態度だけでは、「与える側」と「受けとる側」という固定された上下関係から出ることができない。それではあまりにもったいないです。(中略)
ここに「意味」ベースの関わりの重要性があります。(中略)意味に関して、見える人と見えない人のあいだに差異はあっても優劣はありません。(中略)見えないからこその意味の生まれ方があるし、ときには見えないという不自由さを逆手にとるような痛快な意味に出会うこともあります。そして、その意味は、見える/見えないに関係なく、言葉でシェアすることができます。そこに生まれるのは、対等で、かつ差異を面白がる世界です。 (『目の見えない人は世界をどう見ているのか』序章「うちはうち、よそはよそ」という距離感 から抜粋)