「源氏物語の作者は男好きだね...」藤原道長のイジりに紫式部が返した言葉とは?
光源氏のモデルと噂された源高明のふるまい
B女房「どう。道長様だの実方様など諸説あるけれど、光源氏様のモデルは絶対に源高明様よ。これだけ類似点があるもの。高明様が色好みであったことは、彼の歌集『西宮左大臣集』を見れば分かるわ。僅か七十八首の歌集だけれど、全歌恋歌よ。冒頭の歌なんて光源氏様の歌としてもおかしくないわ」
成程、B女房の言うように『西宮左大臣集』を見ると、冒頭歌は「女に」の詞書で高明は「須磨の海人の」と歌い始め、
須磨の海人の浦漕こぐ舟の跡もなく 見ぬ人恋ふる我や何なり
(噂に魅力的だと聞くばかりで見たこともない女に恋する私はどうしたことか)
源高明(『西宮左大臣集』)
と詠む。
「須磨の海人」「見ぬ人恋ふる」の二句から、光源氏が京の北山で従者から明石入道の娘の話を聞き、逢ったことはないが心ひかれたことを、『源氏物語』第五帖「若紫」の読者は思い合わせるのではないか。
高明は光源氏になりきって詠んでいるのだ。
『西宮左大臣集』は高明没後に他者により編まれたと考えられているが、「須磨の海人の」を冒頭に置いたのは、編者も高明光源氏モデル説を意識しているのだ。
高齢で妖艶な色好み...源典侍のモデル問題
モデル問題で被害を被ったのは、紫式部の夫藤原宣孝の兄の妻、つまり義姉に当たる源明子だ。
内侍司の女官で従四位下相当の典侍なので、源典侍と呼ばれていた。『源氏物語』に詳しい読者諸賢であれば、私が言わんとすることを早くもキャッチしただろう。その通り、『源氏物語』に高齢で妖艶な色好みの、その名も源典侍が登場するのだ。
源典侍は物語の第七帖「紅葉賀」に初登場するが、その時既に五十七、八歳である。年齢にかかわらず多情で、しきりに光源氏にラブコールを送る。若づくりが激しく、若向きの真っ赤な扇を持ち歩いていたが、そこには『古今和歌集』よみ人知らずの歌、
大荒木おおあらきの森の下草したくさ老おいぬれば 駒こまもすさめず刈る人もなし
(大荒木の森の下草が盛りを過ぎ硬くなってしまったので、馬も食べようとしないし、刈る人もいない)
よみ人知らず(『古今和歌集』雑上)
が書かれている。
肉体の柔らかさがなくなって誰も見向きもしてくれない老齢の嘆きだ。
紫式部の義姉は宮廷を離れた
源典侍は七十歳前後まで長生きし、再会した光源氏に妖艶な仕種を示す(『源氏物語』第二十帖「槿」)。
口さがない女房連中が、物語の源典侍のモデルは、作者の義姉の源典侍とするのは無理からぬこと。紫式部も三十歳後半から四十歳に達しているだろうから、夫宣孝が生きていれば六十歳前後、その兄の妻ならば義姉は六十歳から七十歳。物語の源典侍の年齢に近い。
義姉明子に関する記述はほとんどないので、色好みであったかどうかは分からない。しかし口さがない女房雀たちが、物語作者の身近な人で、老いて典侍を務める明子をモデルと考えても仕方あるまい。
現代ならば、プライバシー侵害・名誉毀損きそんの訴訟を起こすところだが、彼女はいたたまれなくなって典侍を辞して、宮廷から離れたという。
このことが更にモデルであることを裏付ける結果になった。それだから周りの人たちは、モデルにされないように警戒する。
藤式部様はひどく気取っていて、近寄りがたくよそよそしい感じで、物語好きで風流振り、人を人とも思わず、憎らし気げに人を見下す人と、誰も思い毛嫌いしていたのに
紫式部(『紫式部日記』)
には、紫式部に対する警戒心がほのうかがわれるではないか。この批評は続いて「会ってみると不思議なほどおっとりして」とあるものの、作者の陰湿さを指摘しているように思われるのだが。