最新記事

世界に挑戦する日本人20

大江千里はなぜポップからジャズに転身したのか 47歳でNYに留学して取り戻した青春と、きらめく「人生の第2章」

2022年9月3日(土)15時25分
大江千里(ニューヨーク在住ジャズピアニスト)

大江さん大学卒業式.jpg

名門・ニュースクール大学のジャズピアノ専攻を4年半かけて卒業(写真提供・大江千里) SENRI OE

だが最初の学期に腕を故障して1学期ほぼ実技ができず、後れを取る。レポートなど一般教養の英語が駄目で、ネイティブの学生に直してもらう。学校の支援サービスで自然な英語の文章を毎日学ぶ。

ジャズも英語も「これはペンです」から「こんな使いやすいペンがあります」になり、徐々に長いセンテンスやフレーズができるようになる。聞こえてくるとしゃべれるようになる。しゃべれるようになると背景が見えるようになる。背景が見えると少しだけ先が読めるようになる。

先が読めると尾びれ背びれを逆に気楽に聞き流すことができる。この聞き流すことにより僕はようやく立体的にジャズと英語になじんでいった。

卒業には4年半かかった。老眼が始まり、手の故障があり順風満帆ではなかった。恩師のジミー・オーエンス(トランペット奏者)は卒業リサイタルのあと駆け寄ってきて、「おまえはわが校始まって以来の劣等生だ。でもよくやった。ハグさせてくれ」と涙を流しながら抱き締めてくれた。

日本から友達や父も来てくれた。人生の第2章が進み出す音がした。

グリーンカードを申請し、自分のジャズレーベルを立ち上げた。ジャズアルバムのデビュー作のタイトルは『Boys Mature Slow(男子成熟するには時間を要す)』だ。

日本の音楽界は事務所とレコード会社に所属して面倒を見てもらうが、アメリカは自分でそれぞれの仕事相手と必要なときに契約し、その合意書を基に自分が主導してチームワークを行う。ジャズを演奏できる場所にメールを送り、ネットでエンジニアやスタジオを探し、CD工場とやりとりした。

演奏の仕事は1000個に1個の確率で決まると、それがまた次へつながる。そんな感じでジャズフェスティバルや各地の会場で演奏するようになってくる。毎回のハードルが高く心臓に悪いが、ポップミュージックの時に積み上げた経験が決して無駄になるわけではないから、それをふんだんに生かしながら僕はアメリカ人の聴衆の前へ一歩一歩出て行った。

――コロナはそのつながりをゼロにしてしまった。担当者が替わり、また最初からの積み上げに戻った。収入も減る。非常に痛い経験だが、逆に学んだことも多い。アメリカではいつも何かが枯渇している。夢とか幸せとか考える暇もなく、その日を燃焼させて夢中で生きている。

きっともっと頑張れば、僕にもまたチャンスは必ず公平にやって来る。人種のことでストレスに感じることはあるといえばあるけれど、どこの国や社会でも物事をステレオタイプな物差しでしか見られない人はいるものだ。

僕はアメリカが世界の中心だとは思っていないが、グローバルスタンダードの1つとしての強力なシステムと影響力を持つ国だと認識している。いろんな価値観の中で自分の力を試せる。それが僕がここにいて挑戦し続ける理由だ。

来年はデビュー40周年なので、ポップとジャズを結んで世界に一つの千里ジャズの新作を作り演奏しようと思っている。ニューヨークは毎日音楽があふれ、いろんな人種がひしめく。その中で研ぎ澄まされていく感覚がある。

いま僕がやりたいのは、ぴと10年前にやった車でのアメリカ大陸横断をもう一度することだ。お互い年を取り完璧な横断は無理かもしれない。でも2人で風を感じ大地の音を聴き、未来を目指す旅をしたい。今度はピアノを積み、あちこちで演奏しながら。

大江千里
1960年生まれ。83年にシンガーソングライターとしてデビュー。2008年に渡米し、12年にアルバム『Boys Mature Slow』でジャズピアニストとしてデビュー。19年に初のピアノトリオ作品となるアルバム『Hmmm』を発表。21年には、自宅でのセルフレコーディングに挑戦したアルバム『Letter to N.Y.』を発表。今年、デビュー40周年を記念してポップ時代のシングルをまとめた『Senri Oe Singles』を発表した。ニューヨーク在住。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

金総書記、プーチン氏に新年メッセージ 朝ロ同盟を称

ワールド

タイとカンボジアが停戦で合意、72時間 紛争再燃に

ワールド

アングル:求人詐欺で戦場へ、ロシアの戦争に駆り出さ

ワールド

ロシアがキーウを大規模攻撃=ウクライナ当局
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:ISSUES 2026
特集:ISSUES 2026
2025年12月30日/2026年1月 6日号(12/23発売)

トランプの黄昏/中国AI/米なきアジア安全保障/核使用の現実味......世界の論点とキーパーソン

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 2
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 3
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指すのは、真田広之とは「別の道」【独占インタビュー】
  • 4
    中国、インドをWTOに提訴...一体なぜ?
  • 5
    ウクライナ水中ドローンが、ロシア潜水艦を爆破...「…
  • 6
    アベノミクス以降の日本経済は「異常」だった...10年…
  • 7
    「衣装がしょぼすぎ...」ノーラン監督・最新作の予告…
  • 8
    【世界を変える「透視」技術】数学の天才が開発...癌…
  • 9
    中国、米艦攻撃ミサイル能力を強化 米本土と日本が…
  • 10
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...ど…
  • 1
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 2
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 3
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指すのは、真田広之とは「別の道」【独占インタビュー】
  • 4
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツ…
  • 5
    中国、インドをWTOに提訴...一体なぜ?
  • 6
    【過労ルポ】70代の警備員も「日本の日常」...賃金低…
  • 7
    ウクライナ水中ドローンが、ロシア潜水艦を爆破...「…
  • 8
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...ど…
  • 9
    批評家たちが選ぶ「2025年最高の映画」TOP10...満足…
  • 10
    待望の『アバター』3作目は良作?駄作?...人気シリ…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 3
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 4
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 5
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 6
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 7
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 8
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
  • 9
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 10
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中