大江千里はなぜポップからジャズに転身したのか 47歳でNYに留学して取り戻した青春と、きらめく「人生の第2章」
だが最初の学期に腕を故障して1学期ほぼ実技ができず、後れを取る。レポートなど一般教養の英語が駄目で、ネイティブの学生に直してもらう。学校の支援サービスで自然な英語の文章を毎日学ぶ。
ジャズも英語も「これはペンです」から「こんな使いやすいペンがあります」になり、徐々に長いセンテンスやフレーズができるようになる。聞こえてくるとしゃべれるようになる。しゃべれるようになると背景が見えるようになる。背景が見えると少しだけ先が読めるようになる。
先が読めると尾びれ背びれを逆に気楽に聞き流すことができる。この聞き流すことにより僕はようやく立体的にジャズと英語になじんでいった。
卒業には4年半かかった。老眼が始まり、手の故障があり順風満帆ではなかった。恩師のジミー・オーエンス(トランペット奏者)は卒業リサイタルのあと駆け寄ってきて、「おまえはわが校始まって以来の劣等生だ。でもよくやった。ハグさせてくれ」と涙を流しながら抱き締めてくれた。
日本から友達や父も来てくれた。人生の第2章が進み出す音がした。
グリーンカードを申請し、自分のジャズレーベルを立ち上げた。ジャズアルバムのデビュー作のタイトルは『Boys Mature Slow(男子成熟するには時間を要す)』だ。
日本の音楽界は事務所とレコード会社に所属して面倒を見てもらうが、アメリカは自分でそれぞれの仕事相手と必要なときに契約し、その合意書を基に自分が主導してチームワークを行う。ジャズを演奏できる場所にメールを送り、ネットでエンジニアやスタジオを探し、CD工場とやりとりした。
演奏の仕事は1000個に1個の確率で決まると、それがまた次へつながる。そんな感じでジャズフェスティバルや各地の会場で演奏するようになってくる。毎回のハードルが高く心臓に悪いが、ポップミュージックの時に積み上げた経験が決して無駄になるわけではないから、それをふんだんに生かしながら僕はアメリカ人の聴衆の前へ一歩一歩出て行った。
――コロナはそのつながりをゼロにしてしまった。担当者が替わり、また最初からの積み上げに戻った。収入も減る。非常に痛い経験だが、逆に学んだことも多い。アメリカではいつも何かが枯渇している。夢とか幸せとか考える暇もなく、その日を燃焼させて夢中で生きている。
きっともっと頑張れば、僕にもまたチャンスは必ず公平にやって来る。人種のことでストレスに感じることはあるといえばあるけれど、どこの国や社会でも物事をステレオタイプな物差しでしか見られない人はいるものだ。
僕はアメリカが世界の中心だとは思っていないが、グローバルスタンダードの1つとしての強力なシステムと影響力を持つ国だと認識している。いろんな価値観の中で自分の力を試せる。それが僕がここにいて挑戦し続ける理由だ。
来年はデビュー40周年なので、ポップとジャズを結んで世界に一つの千里ジャズの新作を作り演奏しようと思っている。ニューヨークは毎日音楽があふれ、いろんな人種がひしめく。その中で研ぎ澄まされていく感覚がある。
いま僕がやりたいのは、ぴと10年前にやった車でのアメリカ大陸横断をもう一度することだ。お互い年を取り完璧な横断は無理かもしれない。でも2人で風を感じ大地の音を聴き、未来を目指す旅をしたい。今度はピアノを積み、あちこちで演奏しながら。
大江千里
1960年生まれ。83年にシンガーソングライターとしてデビュー。2008年に渡米し、12年にアルバム『Boys Mature Slow』でジャズピアニストとしてデビュー。19年に初のピアノトリオ作品となるアルバム『Hmmm』を発表。21年には、自宅でのセルフレコーディングに挑戦したアルバム『Letter to N.Y.』を発表。今年、デビュー40周年を記念してポップ時代のシングルをまとめた『Senri Oe Singles』を発表した。ニューヨーク在住。