大江千里はなぜポップからジャズに転身したのか 47歳でNYに留学して取り戻した青春と、きらめく「人生の第2章」
15歳の時にヤマハのワークショップを受けさせてもらった時期があり、その帰り道、大阪・アメリカ村の中古レコード店でジャズのアルバムを偶然見つけて思わずジャケ買いした。アントニオ・カルロス・ジョビンの『ストーン・フラワー』、クリス・コナーの『シングス・ララバイ・オブ・バードランド』。
通い詰めるうち、セロニアス・モンクやビル・エバンスを知る。それまで聴いたことのない音階やコードに驚き夢中で聴き続けた。でも、どうやってもからくりが分からない。
それで藤井貞泰氏の教則本を勉強し始めたのだが、ポップのシンガーソングライターでデビューというチャンスがやって来たので、僕はジャズを追求したい気持ちを心の隅に置き、シンガーソングライターの道を選んだ。
以来、ずっと心に「あの日諦めたジャズの謎をいつか解き明かしたい」という思いが居座り続けた。
そんなわけで僕は47歳の時、アメリカのニュースクール大学のジャズピアノ専攻を受験し合格、ニューヨークへ渡る。
ジャズも英語もある程度はできるだろうとタカをくくっていた。だが最初のオリエンテーションで、何もできないことが分かる。英語は聴き取れない。ジャズのノリもコードも分からない。名声や富があり生活が守られていた日本での環境を手放し、完全に退路を断ってジャズに集中した。
大人になってから学生たちの空間に飛び込むのは、大変だが楽しくもあった。「私はハンナ、あなたは?」「千里」「先生でしょ、よろしく」「生徒だよ」「あら」。そんな会話が新学期の授業を待つ廊下でいつも起こる。そのうち、アメリカでは年齢やキャリアは関係ないことが分かってホッとする。
ただ10代のうちに既に基礎が出来上がった上で入ってくる学生たちはレベルが高く、それも世界中から集まってくる。授業を取るのに選抜試験があったので、ありとあらゆるオーデイションを受けまくる。それに全部落ち、授業料を払っているのに基礎のイヤートレーニング、速読、実技、ジャズ理論、リズムなどゼロからの学びのクラスばかり。
ジャズは悲しいとき音が躍る。楽しいときはちょっと切なくなる。音と音をぶつけて生じさせる不協和音を使って憂いのある世界感を演出できる。まさに一旦、成熟しかけた僕の人生に「待った!」をかけたのがジャズだったのだ。
春入学を前に最初に住んだアパートは雪の季節、学校に近いエレベーターなしの4階。暖炉はあったがそこに雨漏りがして一緒に渡米した愛犬の「ぴ」(ミニチュアダックスフントの女の子、1歳)の体ほどありそうな大型ネズミが枕元を走った。
ピアノを弾くとアパート中から壁や天井をたたかれる。前の人が置いていった簡易ベッドで背中を痛めながら、ぴと抱き合い慣れない環境と久々の大学入学に右往左往で、毎晩泥のように眠った。
やがて最初の夏休み前に同期の20歳のタイ人ドラマーとアパートをシェアすることになり、2人で探した場所へ引っ越した。屋根裏のような4階の雨漏りアパートの大家は敷金を返さず、不動産屋と2人で何度も大家を待ち伏せて直談判。これが最初のアメリカでの交渉事だった。
同居人のテップとは同じアジア人ということもありすぐに打ち解け、毎晩一緒に自炊してカレーを食べた。ご飯の炊き方で「千里はねっちゃり炊きすぎ」「テップこそパサパサ」とお互い譲らず笑った。
クラスメイトのボーカルの女性にアメリカ人がよくやるハグをし、思わず唇にキスをして「あの時キスしてくれたじゃない」と言い寄られたり。僕の人生は振り出しに戻ったようにキラキラと18歳の頃の輝きを取り戻した。