最新記事

日本社会

20万円で売られた14歳日本人少女のその後 ──「中世にはたくさんの奴隷がいた」

2021年7月18日(日)08時35分
清水 克行(明治大学商学部 教授) *PRESIDENT Onlineからの転載

ところ変わって、琵琶湖のほとりの大津(現在の滋賀県大津市)。人買いたちは少女を陸奥国(現在の東北地方東部)に売り払おうと舟に乗せ、いまにも漕ぎ出そうというところであった。少女は気の毒にも縄で縛られ、口には猿ぐつわがかまされていた。

そこへ自然居士が追い付いて、待ったをかける。舟に取りついた彼は「小袖は返すから、少女を引き渡すように」と、人買いたちに交渉を持ちかける。これに対して人買いたちは、次のように答えて、自然居士の提案を一蹴する。

「返してやりたくても、そうはいかない。オレたちのなかには『大法(たいほう)』があって、それは『人を買い取ったら、ふたたび返さない』という『法』なのだ。だから、とても返すわけにはいかない」

能「自然居士」ではハッピーエンドだが......

これに対して自然居士も「それならば、私たちのなかにも『大法』がある。『こうして身を滅ぼそうという者を見かけたら、それを救出しなければ、ふたたび寺には帰らぬ』という『法』だ」と、反論する。かくして両者はにらみ合いの形勢となる。

中世の日本社会は、朝廷や幕府などの定める「大法」とはべつに、様々な社会集団に独自の「大法」があって、それが各々拮抗(きっこう)しながら、併存していた。人買いたちの「大法」も、そのうちの一つである。もちろん特定のコミュニティーのなかに固有のルールが存在すること自体は、いつの時代でも決して珍しいことではない。

ただ、当時の社会の独特なところは、それが公的に定められた法に反するものであったとしても、彼ら自身、それを堂々と主張し、時としてそれが公的に国家が定めた法よりも優越することがありえたというところだ。

話は「赤信号は渡ってはいけないが、現実にはそのルールを破る人もいる」といったレベルではなく、「赤信号は渡ってはいけない、というルールがある一方で、赤信号を渡って何の問題があるんだ、というルールも存在する」という状況だったのだ。

能「自然居士」は、その後、人買いたちの求めるままに自然居士が即興でみごとな舞をまってみせて、彼らを感嘆させ、少女の解放に成功するというハッピーエンドで終わる。しかし、これはあくまでフィクション。現実の人身売買の現場では、そうはうまくいかなかっただろう。

人身売買はありふれた「悲劇」

室町時代の文芸作品で人身売買を主題にしたものは、他にも意外に多い。なかでも有名なのは、能「隅田川」だろう。幼いひとり息子、梅若丸(うめわかまる)を人買い商人に誘拐されてしまった母が、遠く京都から武蔵国(現在の東京都と埼玉県)の隅田川まで、行方を追い求めて訪れるという話である。

半狂乱で隅田川までたどり着いた母は、渡し舟の船頭から、梅若丸は去年の3月15日にこの川のほとりで息絶えていたことを聞かされる。慣れない旅路で体調を崩した幼い梅若丸は川岸まで来たところで動けなくなったため、人買いたちに捨てられ、そのまま息を引き取ったのだった。以来、近所の人々は梅若丸の塚のまえで大念仏を催して、少年の霊を慰めているのだった。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ワールド

EXCLUSIVE-イラン、インド船籍ガスタンカー

ワールド

イラン新指導者、負傷で姿見せない公算 外見損傷か=

ワールド

キューバ、米と協議開始 石油封鎖の影響深刻化

ビジネス

米個人消費1月堅調、PCE価格指数前年比2.8%上
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:教養としてのミュージカル入門
特集:教養としてのミュージカル入門
2026年3月17日号(3/10発売)

社会と時代を鮮烈に描き出すミュージカル。意外にポリティカルなエンタメの「魔力」を学ぶ

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    米軍も防ぎきれないイランのドローン攻撃──イラン製をモデルにした米国製ドローンを投入
  • 2
    ショーン・ペンは黙らない――「ウクライナへの裏切りは常軌を逸している」その怒りの理由
  • 3
    世界の視線は中東から日本へ...企業主導で築くインド太平洋防衛
  • 4
    職業別の収入に大変動......タクシー運転手・自動車…
  • 5
    「イラン送りにすべき...」トランプ孫娘、警護隊引き…
  • 6
    「映画賞の世界は、はっきり言って地獄だ」――ショー…
  • 7
    有人機の「盾」となる使い捨て無人機...空の戦いに革…
  • 8
    北極海で見つかった「400年近く生きる生物」がSNSで…
  • 9
    謎すぎる...戦争嫌いのMAGAがなぜイラン攻撃を支持す…
  • 10
    「このままよりはマシだ」――なぜイランで米軍の攻撃…
  • 1
    ロシア政府、痛恨のミス...プーチンの「健康不安説」を裏付けるような動画を公式に投稿してしまう
  • 2
    メーガン妃、娘リリベット王女との新ショット公開...撮影はパパ
  • 3
    「日本より、自分の国(フランス)を心配すれば?」と言われる外国特派員の私が思うこと
  • 4
    「このままよりはマシだ」――なぜイランで米軍の攻撃…
  • 5
    キャサリン皇太子妃、英連邦デー式典に出席...公開さ…
  • 6
    職業別の収入に大変動......タクシー運転手・自動車…
  • 7
    【長期戦はイラン有利】米側の体制転覆シナリオに暗…
  • 8
    米軍も防ぎきれないイランのドローン攻撃──イラン製…
  • 9
    40年以上ぶり...イスラエル戦闘機「F-35I」が、イラ…
  • 10
    中国、4隻目の空母は原子力艦か──世界3番目の原子力…
  • 1
    ロシア政府、痛恨のミス...プーチンの「健康不安説」を裏付けるような動画を公式に投稿してしまう
  • 2
    台湾侵攻「失敗」の大きすぎる代償
  • 3
    メーガン妃、娘リリベット王女との新ショット公開...撮影はパパ
  • 4
    見事なカンフーを見せた中国ヒト型ロボットのからく…
  • 5
    アルコールは血糖値を下げる...「脳と血管を守る」医…
  • 6
    ウクライナ戦闘機「F-16」がロシア軍「シャヘド」を…
  • 7
    「ヘル・コリア」から日本へ7万人 ── 大企業の高給より…
  • 8
    「日本より、自分の国(フランス)を心配すれば?」…
  • 9
    日本の若者「韓国就職」憧れと現実のギャップ ── ビ…
  • 10
    命は長し、働け女たち――88歳「働くばあさん」が説く…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中