日本語は本当に特殊な言語か?
たとえば広辞苑(第6版)で「こうしょう」を引くと、「交渉、高尚、公証、好尚、口承、工商」などの異なる言葉がなんと48も出てくる。漢語では「交」と「高」、「渉」と「尚」も、文字が違えば音も違うが、日本語では音が少ないために同じ音になってしまう。
それでもなんとか通じるのは、文脈で見当がつく場合が多いからだ。
だが、それだけではない。わたしたちは、聞きながら無意識に頭の中で漢字に変換しているのである。だから、前後関係が意味を持たない固有名詞などは、音を聞いただけでは落ち着かない。
ある番組で、「センシンカン」という名の建物が登場した。すると司会の林修さんが「センシンカン? どういう字を書くんだろう?」としきりに首をひねっていたが、「洗心館」とわかって大きくうなずいていた。
「しりつ」を「わたくしりつ(私立)」と「いちりつ(市立)」、「かがく」を「かがく(科学)」と「ばけがく(化学)」と言ったりするのは、文脈だけでは区別が難しいことによるものだ。いつの頃からか、テレビ画面に字幕がよく出るようになったのも、これとまったく無関係ではないだろう。
それだけではない。「ジャンプのほうの『とぶ(跳ぶ)』ではなくて、フライのほうの『とぶ(飛ぶ)』ね」というように、英語の助けすら借りることも珍しくない。
「何年も習ったのに英語がちゃんと聞き取れない」などという嘆きは耳にたこができるほど聞くが、そもそもわたしたち日本人は、母語ですら音声だけには頼れないのだ。
もし日本語の特殊性について言うならば、「音声だけでは十分に機能しない言語」である点にまずは触れるべきだろう。
[筆者]
平野卿子
翻訳家。お茶の水女子大学卒業後、ドイツ・テュービンゲン大学留学。訳書に『敏感すぎるあなたへ――緊張、不安、パニックは自分で断ち切れる』、『落ち込みやすいあなたへ――「うつ」も「燃え尽き症候群」も自分で断ち切れる』(ともにCCCメディアハウス)、『ネオナチの少女』(筑摩書房)、『キャプテン・ブルーベアの13と1/2の人生』(河出書房新社、2006年レッシング・ドイツ連邦共和国翻訳賞受賞)など多数。著書に『肌断食――スキンケア、やめました』(河出書房新社)がある。