リーマン破綻のドキュメント
最後まで救済を信じたリーマン
リーマンは歴史ある企業だが、現代の社風はトレーダー出身でハイリスクの賭けが好きなファルドがつくったものだった。ファルドのあだ名は「ゴリラ」で、自分でもオフィスに玩具のゴリラを置いていた。そして彼を突き動かしてきたのは常に、「われわれ(ファルドのような公立学校出身者)」対「奴ら(ポールソンのような知ったかぶりのハーバード大学出身者)」の対抗意識だった。
ポールソンとファルドは昔から知り合いで、ポールソンはファルドを「いい奴」、あるいは「友人」とさえ言う(ファルドは本誌の取材を拒否)。だがウォール街と政府の関係者によると、ポールソンはファルドを現実を見失ったギャンブラーとみていたという。
ポールソンは、リーマンが商業用不動産に無謀とも思える投資をした07年10月に、ファルドとリーマンの将来について疑問を持ち始めた。08年6月になって赤字が表面化し始めると、リーマンのレバレッジ(自己資本のうちの負債の比率)を下げ、身売り先を見つけるか資本を増強するようファルドに要請した。だがファルドはリーマンに有利な条件に固執してポールソンをいら立たせたと、関係者は言う。
08年9月上旬になると、リーマン・ブラザーズの役員室は戦時の作戦司令室さながらの様相を呈するようになった。ファルドの将校たちが昼夜を分かたず歩き回り、ダイエット・コークをがぶ飲みしながら解決策を模索した。緊急性は日々、加速度的に高まった。
韓国の銀行が増資に応じそうに見えたこともあったが、その後手を引いた。それでもファルドとその部下は希望を持ち続けた。08年3月、大手銀行のJPモルガン・チェースは、連邦政府の融資を受けて投資銀行ベアー・スターンズを救済した。リーマンも買い手さえ見つければ、当然政府が助けてくれるはずだった。
9月10日にリーマンが08年6~8月期の決算見通しで40億ドル近い赤字を明らかにした2日後、連邦政府が動いた。9月12日の金曜日、ウォール街の投資銀行の幹部たちが緊急招集された。時刻は午後6時。黒塗りの高級車が続々と、ニューヨーク連邦準備銀行の要塞のような建物の前に乗り付けた。
中では、ポールソンとニューヨーク連銀のティモシー・ガイトナー総裁(現財務長官)が待っていた。ポールソンはウォール街関係者に言い渡した。納税者の金に頼るのではなく、自分たちでリーマン問題を解決せよ、と。
この時点でリーマン社内では、連邦政府に見捨てられると思っている人間はいなかった。ポールソンの脅しははったりにすぎないと高をくくっていたのだ。だがそれは見込み違いだった。法律上の制約により、しかるべき担保のない投資銀行に融資を行う権限が政府にはなかったのだと、ポールソンは後に説明している。
しかし、複数の元リーマン関係者(元株主に起こされた訴訟が決着していないことを理由に匿名を希望)によれば、法律上の制約についてはポールソンからもバーナンキからも1度も説明がなかったという。ポールソンがしきりに強調したのは、政府が救済すれば経営倫理の欠如を招くという点だったと、元リーマン関係者は言う。
ニューヨーク連銀の会合にリーマンが送り込んだのはバート・マクデード社長だった。CEOのファルドは、終わりが近づいていることを認めようとせず、懸命に身売り先を探していた。
ゴールドマンOBの陰謀説も
9月12日の時点でファルドが話を持ち掛けていたのは、商業銀行大手バンク・オブ・アメリカ(BOA)のケン・ルイス会長兼CEOだった。BOAならリーマンを買収するだけの体力がある。それに投資銀行業務で経験豊富なリーマンを傘下に収めることは、先方にとってもメリットがあるはずだとファルドは思っていた。
しかし、いつまでたってもルイスから返事が戻ってこない。日付が12日から13日に変わっても音沙汰がない。「なぜ連絡がないんだ? 理解できない」とファルドは言い続けていたと、その場にいた関係者は言う。
実はこのとき、ルイスはウォール街の投資銀行と買収交渉を進めていたが、その相手はリーマンではなかった。マンハッタンの高層ビルの一室でルイスが密会していたのは、メリルリンチのジョン・セインCEOだった。メリルの財務状態はリーマン同様に深刻だったが、株式の個人投資家を顧客として大勢抱えている点がBOAにとっては魅力だった。
この日、ファルドが連絡を取れない重要人物がもう1人いた。ポールソンの居所が突然分からなくなったのだ(ファルドは「10分置きに電話してきた」と、このとき財務省にいた人物は言う)。
ポールソンとセインは2人ともゴールドマン・サックスの出身。ゴールドマン出身者同士で結託してリーマンのBOAへの「求婚」に横やりを入れ、BOAとメリルをくっ付けてメリルを救ったのではないかと、リーマンの元関係者の一部は疑っている。
本誌の取材に対し、ポールソンは陰謀の存在を否定する。セインとルイスの間を取り持ったのは事実だが、それはメリルも深刻な状況だったからにすぎないと言う。
BOAに会社を買い取ってもらう計画は実を結ばなかったが、ファルドは破綻回避を諦めていなかった。イギリスの大手商業銀行バークレイズとの交渉に、最後の望みを託した。9月14日の日曜日朝の時点では、バークレイズとの合意がまとまりそうだと思っていたリーマン幹部もいた。しかしこの買収話も結局、破談に終わった。
時間切れが近づいていた。14日夜、金融関係者や政府関係者との長時間の協議を終えて戻ってきたマクデードが伝えたのは、リーマンにとって非常に悪いニュースだった。政府は、この夜のうちに(つまりヨーロッパとアジアの市場が開く前に)リーマンが破産を宣言することを求めていた。証券取引委員会(SEC)のクリストファー・コックス委員長が電話してきて、リーマンの幹部たちに言った。「皆さんの責任は重大だ」
幹部たちは愕然としていた。リーマンが破産すれば深刻な結果を招くことは明らかだった。リーマンに融資しているほかの大手金融機関にも打撃は及ぶ。
ウォール街を救ったおたく学者
事態の重大性はポールソンも認識しているつもりだった。しかしその後の展開を予測できた高官は1人もいなかった。リーマンが破綻した後、金融市場は壊滅的な打撃を被り、世界規模で銀行の取り付け騒ぎが起きる可能性すら現実味を帯びて見えた。
それを救ったのは、バーナンキFRB議長の素早い判断だった。バーナンキはもともと世界恐慌が専門の経済学者。その研究を通じて学んだ一番重要な教訓は、一刻の猶予もなく連邦政府が手を打つべきだというものだった。
バーナンキはリーマン破綻後すぐにFRBの貸し出し条件を大幅に緩和し、金融機関に惜しみなく資金を供給。融資額は1兆ドルに達した。「(ポールソンと)あなたには『融資相談係』というあだ名まで付いている」と、下院金融委員会のバーニー・フランク委員長はバーナンキに言った。
ポールソンとバーナンキのコンビで表舞台に立つのはポールソンの役目だったが、初めのうちはつまずいてばかりに見えた。バーナンキに説得されてポールソンは大規模な金融機関救済案を打ち出したが、議会の同意を取り付けるのは至難の業だった。当初議会は救済案を拒否し、株式相場が暴落した後でようやく、修正を加えさせた上で了承した。
議員たちを説得するという点では、尊大なポールソンより、丁重だがストレートに話すバーナンキのほうがいい仕事をした。下院が救済案を拒否したままの状態でナンシー・ペロシ下院議長が週末にワシントンを離れようとしていたとき、月曜日まで戻ってこないと言うペロシに対して、バーナンキは冷静だがきっぱりした口調で言った。「月曜日にはもう経済が存在していないかもしれません」
ポールソンは、自分とバーナンキがマネー・マーケット・ファンド(MMF)の元本保証のために為替安定化基金の活用を決めるなどの対策を施し、世界の金融システムの全面崩壊を防いだことを誇りに思っていると言う。「あのとき私たちが手を打たなければ、恐ろしいことになっていた」
リーマンの元トレーダーのなかにはバークレイズに移籍した人も多い。だが、職場のムードは昔とだいぶ違う。新しい職場では誰もネクタイなどしないし、トレーディングルームで1回10ドルで靴磨きをするブラジル人の少年たちもいない。ただしいまだに「こちらリーマン!」と電話口で怒鳴る声は時々聞こえる。
ポールソンが執筆中の回顧録は10月に出版の予定だ。リーマン破綻にはあまりページを割かず、経済を救うために政府が取った対策を強調することになるだろう。
ある意味で彼は正しい。リーマン破綻がその後しばらくアメリカの政策当局者と金融業界関係者に強烈な精神的ダメージを与えたことは事実だが、それは危機の本質ではない。フットボール場を離れれば、ポールソンは「ハンマー」というより、むしろハンマーでたたかれるくぎのように無力な存在でもあったのだ。
[2009年5月27日号掲載]