コラム

日本の北方外交に必要な2つのこと

2022年05月11日(水)14時30分

もう1つ、河東氏が言及していないのは、中国とロシアの関係です。

中国とロシアには、実は複雑な領土問題があります。「外満州」と言われる地域の帰属問題です。現在の東シベリアの沿海地方(沿海州)、アムール州、ユダヤ自治州、およびハバロフスク地方南部の全体です。

この外満州については、清朝の勢力が強大であった時には中国領でした。ところが、その後の清朝は徐々に衰退して列強に押されるようになり、その結果として外満洲はすべてロシアの領土となったのでした。

中国とロシアの領土問題は、大きな問題としてはこの「外満州」の帰属ということになります。中国の中には、間宮海峡付近まで全部「外満州」であり、ついでに対岸の樺太も中国の「失われた領土」だなどという主張もあるわけで、中長期のレンジで日本の北方外交を考える上では、この問題には注意を払う必要があると思います。

一方で、現時点ではこの「外満州」に関する中国とロシアの国境問題は、目立った形として出てきてはいません。というのは、中ソ対立の中で、1969年には軍事衝突を起こすなど何かと問題になっていた国境線に関して、2004年に当時の胡錦濤政権とプーチン政権は、国境線の確定を行ったのでした。

世界は、ここで両国が平和的に「国境線を確定」したことを歓迎しました。ですが、長い中国の歴史を考えると、中国としては「譲歩し過ぎ」だったという見方は可能です。ずっと広大な「外満州」の領有問題については、ひとまず脇へ置いておくことにします。

中ロ間に残る「火種」

具体的な「火種」としては「江東六十四屯(こうとうろくじゅうしとん)」という地域があります。これは、現在の黒龍江省黒河市から見てアムール川の対岸一帯にある地域で、清朝居民の居留県でした。清国が「外満州」の領有権を失った後、法的にはロシア領でも、清国が管理し清国人が居住していたのです。

ところが、この「江東六十四屯」に関しては、1900年にロシアが襲撃して清国住民を大量虐殺するという事件が起きています。虐殺によって「江東六十四屯」は潰されて清国の実効支配は排除されました。事件が事件だけに、広い意味での中華世界にはこの大虐殺という歴史的事実の記憶が残っています。

江沢民や胡錦濤は2004年の合意に際して、この「江東六十四屯」の返還を要求することはしませんでした。当時ロシアが実効支配していた3つの島を「全体面積二等分」方式で中国に返還したということもありますが、恐らく、急速な経済成長を支えるエネルギー需要を満たすために、この時点で中国はロシアに対して妥協をしたのだと思います。

ですが、急速に原子力開発を加速している現在の中国は、以前ほどロシアの化石エネルギーに依存しなくなりました。そんな中で、今後「江東六十四屯」や、更には「外満州」の帰属があらためて問題になっていく可能性はあると思います。こうした動きとは別に、2000年以降、沿海州地方には中国人の居住者が増えており、事実上は中国経済に依存しているという現状もあります。

この要素は、日本の北方外交を複雑にする可能性があります。ですが、中ロにケンカさせて、漁夫の利を得ようという短絡思考ではなく、あくまで自国の立場を一貫して主張しつつ、長期的で安定的な関係を粘り強く維持するという姿勢で向き合うべきと思います。

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プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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