コラム

シンガポール「創業者」、リー・クワンユー氏の功罪

2015年03月24日(火)12時20分

 そうではあるのですが、現在の成功と安定を見ていると、このリー氏の設計した都市国家のコンセプトは「賢人政治」という点も含めて隙がないように見えます。では、リー・クワンユー氏の思想にも、批判すべき点はないのでしょうか?

とんでもありません。例えば、有名な金大中氏との会談で、リー氏が言い放ったという「アジア人には民主主義は相応しくない」という発言に関しては、私は反対です。また89年の「六四天安門事件」に際して、いち早く共産党指導部の改革潰しを支持したということについても、私は異議があります。

 シンガポールの場合は、特に独立後数年の間は、「マレー人との国内における平和的共存」という問題は、自由と民主主義といった理念よりも優先されたのです。というのは、華人とマレー人が共存できなければ国家は消滅する危険があったからです。その必然は、アジア全域においては一般化できるものではありません。

 マレー人との共存という問題だけでなく、シンガポールという国は、正に都市国家、いや1つの企業体として、貿易だけで成り立っているという特殊性があります。地の利を生かした、そして港湾や空港のインフラ、人材という資源、そして英語圏という見えないインフラを生かした貿易立国という大前提があり、その成功のためには、採るべき政策は合理的な判断で比較的簡単に決定ができるのです。

 ですが、中国や日本といった大国は、どんなにコストがかかっても、多様なものが主張しつつ共存し、その上で様々な衝突や摩擦からも「何かを生み出す」、つまりカルチャーや文明のレベルの「目に見えない価値」をつくることが求められます。そうした国々は、シンガポールとは規模も質も違うのです。

 それにも関わらず中国の場合は、民主政体へと移行するタイミングをつかめずにいるわけで、仮にもリー・クワンユー氏の「遺言」ないし、シンガポールの成功例が、北京の中南海に影響を与えているのだとしたら、それは違うと思うのです。

 また、本人は大真面目であったかもしれませんが、「欧米では可能な民主主義は、アジアには相応しくない」という言い方は、アジアの人びとの深層における劣等意識を触発してしまうように思います。

 仮にそうであれば、中長期的にはアジアが欧米を越えた高度な文明に到達することを、かえって阻害しているとも言えるわけで、私はやはり一般化はできないように思うのです。それも含めて、一つの時代の終わりを感じさせる訃報でした。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

アングル:スイスの高級腕時計店も苦境、トランプ関税

ワールド

ルビオ氏「日米関係は非常に強固」、石破首相発言への

ワールド

エア・インディア墜落、燃料制御スイッチが「オフ」に

ワールド

アングル:シリア医療体制、制裁解除後も荒廃 150
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:大森元貴「言葉の力」
特集:大森元貴「言葉の力」
2025年7月15日号(7/ 8発売)

時代を映すアーティスト・大森元貴の「言葉の力」の源泉にロングインタビューで迫る

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    完璧な「節約ディズニーランド」...3歳の娘の夢を「裏庭」で叶えた両親、「圧巻の出来栄え」にSNSでは称賛の声
  • 2
    「ベンチプレス信者は損している」...プッシュアップを極めれば、筋トレは「ほぼ完成」する
  • 3
    シャーロット王女の「ロイヤル・ボス」ぶりが話題に...「曾祖母エリザベス女王の生き写し」
  • 4
    アメリカを「好きな国・嫌いな国」ランキング...日本…
  • 5
    トランプはプーチンを見限った?――ウクライナに一転パ…
  • 6
    セーターから自動車まで「すべての業界」に影響? 日…
  • 7
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、…
  • 8
    『イカゲーム』の次はコレ...「デスゲーム」好き必見…
  • 9
    主人公の女性サムライをKōki,が熱演!ハリウッド映画…
  • 10
    日本人は本当に「無宗教」なのか?...「灯台下暗し」…
  • 1
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、ネットが感動の渦
  • 2
    日本企業の「夢の電池」技術を中国スパイが流出...APB「乗っ取り」騒動、日本に欠けていたものは?
  • 3
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...父親も飛び込み大惨事に、一体何が起きたのか?
  • 4
    シャーロット王女の「ロイヤル・ボス」ぶりが話題に..…
  • 5
    「本物の強さは、股関節と脚に宿る」...伝説の「元囚…
  • 6
    「飛行機内が臭い...」 原因はまさかの「座席の下」…
  • 7
    アリ駆除用の「毒餌」に、アリが意外な方法で「反抗…
  • 8
    為末大×TAKUMI──2人のプロが語る「スポーツとお金」 …
  • 9
    孫正義「最後の賭け」──5000億ドルAI投資に託す復活…
  • 10
    後ろの川に...婚約成立シーンを記録したカップルの幸…
  • 1
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 2
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 3
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事故...「緊迫の救護シーン」を警官が記録
  • 4
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 5
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 6
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 7
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 8
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 9
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 10
    「うちの赤ちゃんは一人じゃない」母親がカメラ越し…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story