コラム

『abさんご』、遁走する日本語の表記法

2013年01月30日(水)11時47分

 黒田夏子さんの芥川賞受賞作『abさんご』に関しては、75歳という黒田さんが史上最高齢での受賞だとして話題になっています。ですが、私にはこの作品は、作家の方向性を示すという意味では十分に練られたものである一方で、今後の発展性ということでは、まだまだ可能性が感じられ、その点でも芥川賞には相応しいと思いました。

 あまり「ネタバレ」はしたくないのですが、時間と空間の表現を極端に抽象化することで主人公の孤独感が表現されている点と、その抽象的な世界を浮遊するような感覚が、結末近くにある別離のシーンでクリアーに焦点を結ぶところは、なかなかに感動的でした。

 ストーリーに関してはこれ以上の言及は避けますが、アメリカで日本語を教えている私には、この作品が日本語の表記法という意味で、たいへんに興味深く思えるのです。この作品の表記法には実にユニークなアイデアが埋め込まれており、それがパワフルな表現手法になっているからです。

 まず、全編が横書きになっています。この横書きというのは、例えば英語の会話が埋め込まれている、水村美苗さんの『私小説~from left to right』のような直接的な必然性は、この『abさんご』にはないわけです。強いて言えばタイトルにある「a」と「b」というキーワードを文に溶け込ませるという意味ぐらいでしょう。

 ですが、この「横書き」というのにはもっと深い意味があると思います。それは「この小説は視覚的な表現を強く追いかけている」という宣言になっているということです。

 実際にこの小説は、実に視覚的です。まず、本来は漢字表記をすべき概念語や一般名詞の多くを平仮名にしています。例えば、「たましい」とか「もんだい」「むえん」「みゃくらく」といった具合です。これは様々な効果を生み出しています。

 表面的には「小児性」のような印象があります。ですが、それが人生の年月を重ねた上での孤独と重ねられると不思議な浮遊感覚になってゆくのです。では、浮遊感の結果として概念や意味が曖昧になっているのかというと、そうではないのです。例えば「見上げたてんじょう」という表現があるのですが、これは「見上げた天井」と普通に書くのとは全く違って、その「てんじょう」が目に浮かぶほど強い効果があるのです。

 気がつくと「たましい」とか「むえん」といった概念語でも、その概念が重く伝わって来ることに気付かされます。こうした平仮名表記ということでは、近代詩には色々と例があるわけです。吉本隆明の「もんだい」とか、マチネ・ポエティックの「しるべ」とか、有名なところでは谷川俊太郎の「がっこう」など、それぞれに効果を挙げていますが、それらとはまた違うユニークな仕掛けであると言えるでしょう。

 プレーンな概念語や一般名詞が平仮名で書かれている一方で、漢字で書かれた部分もユニークです。例えば「帰着点」とか「幼弱期」「受像者」というのは、詩語とか造語スレスレの「非日常的」な語彙なのですが、それが平仮名表記の「強さ」と綺麗にバランスしているように思えます。

 更にそうした視覚的世界は、派生的な効果を生んで行きます。例えば、動植物に関する「樹皮」とか「多肉果」というような語彙は、普通の漢字仮名交じり文では「ウルサイ」感じになりがちですが、平仮名表記を多用した文の中に配置されると、不思議な浮き立ちをするわけで、そこにはセクシャルな匂いすら感じさせられて、本作の魅力の1つになっているのです。

 視覚的効果の最大なものは、漢語による人称代名詞でしょう。これは「実名を回避している」というような単純なものではありません。例えば「小児」というのは実は「私」という一人称であり、それは確かに子供時代の自分の視点での語りになるのですが、そこに「小児」という突き放した漢語を充てることで、年齢を重ねたもう1人の自分という視点が重なるわけです。いわば二重時間差一人称という趣であり、それが時間と空間という4次元世界の中での、主人公の孤独と孤立を示唆しているわけです。

 同様に「死者」とか「配偶者」という実名のない表現も、それぞれの人物と主人公との時空を超えた関係性と距離感の表現になっているわけです。

 いずれにしても、この『abさんご』という作品は、日本語の視覚的な可能性を最大限に引き出したという点で、画期的です。日本語というのは、そもそも4種類の表記体系(平仮名、片仮名、漢字、ローマ字)を持っている中で、表記法を崩すことで様々な効果が追求できるわけです。

 つまり、表記法の規範から遁走することで、手垢にまみれた陳腐な表現から、逃げることができるわけです。例えば「ばら撒き」と「ばらまき」と「バラマキ」が違うように、「きゃりーぱみゅぱみゅ」が「キャリーパミュパミュ」ではダメであるように、近年の日本語は視覚的効果を追求することで変化し、表現の陳腐化から遁走を続けてきました。

 黒田夏子さんの『abさんご』は、そのトレンドに乗りながら、正に陳腐化とは無縁の新鮮な日本語表現を成功させていると思います。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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