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冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代
追悼、吉本隆明氏を送る
87歳という高齢になるまで例えば糸井重里氏との対話など、批評家として時代を見つめていた活力もこの方らしかったように思いますが、その一方で、静かな亡くなり方にも吉本さんらしさを感じます。エネルギッシュな言葉の奔流が暖かな余韻を残す一方で、ふっと立ち去るような訃報が不思議にバランスしているように思うのです。
バランスという意味では、60年近い間、厳しい発言を続けると同時に、言葉への責任感を忘れない方でした。吉本さんの言葉はこれからも日本の「戦後」の記録として古びることはないと思いますが、その説得力も責任感ゆえだと思います。
古びないということでは、私は吉本さんの再評価というのは必要だと思います。漠然と学生運動や左翼運動の理論的支柱だったというようなイメージで、冷戦型の対立が消えたのと同じように、吉本さんの思想も時代遅れになっていったと社会的には思われています。批評家の吉本隆明というより「よしもとばななさんのお父上」という言われ方をすることも多くなりましたが、私は吉本さんの思想は古びてはいないと思うからです。
吉本さんの思想は一言で言えば、近代という概念を戦前の日本が獲得に失敗したことを前提に、改めて近代という考え方を紹介しようとした、この一点に尽きると思います。その意味では、吉本さんは一度たりとも「独裁を許すような共産主義者」ではなかったのであり、近代主義者として1950年代から2000年代まで見事なまでに一貫していたと思います。
例えば、自費出版していた雑誌『試行』に連載されていた「情況への発言」などがいい例ですが、60年代から70年代にかけての舌鋒は非常に鋭いものでした。論敵を「お前」呼ばわりして「だから駄目なんだ」という調子で徹底的に叩きのめす文体は、当時の若者は「左翼よりももっと左翼的な人が厳しいことを言っている」と思って心酔していたわけです。
そのように「左翼以上に左翼的な」というイメージは、例えば吉本さんの50年代の詩句をもじった「遠くまで行くんだ」という表現に託したりしながら、ロマンチックな「理想主義の果てまで行きたい」という若者の心情にシンクロして行ったのでした。
その主張ですが、中身としては「文化大革命はスターリンと同じ独裁志向」であるとか「日本赤軍がイスラエルでテロを起こしたのは、最も不幸な被害者に同伴すれば救われるという誤った思想の悲惨な末路」というような内容でした。今から考えると、こうした考え方は良い意味での近代主義であるわけです。冷戦が終わっても思想として死なないのは当然でした。
宗教や文学への理解も同じです。吉本さんの宗教理解というのは、「信じてしまう」という「一線を越えるか越えないかの境界が大事」という話でしたし、文学に関しては「社会主義の普及のためにまず価値観ありき」である「プロレタリア文学」は「美」ということでは劣るんだという明快な主張でした。これも非常にクリアーな考え方で、宗教論の方は近代の側から前近代に潜む本質を最評価しようという試みですし、文学論は近代主義そのものだったように思います。
主著と言われる「共同幻想論」は難解だと言われていますが、徒党を組むと徒党から外される人間ができる、そこに様々な問題が発生するという考えは一言で言えば「近代の個人主義」を裏返して言っていただけです。個人主義というと「ブルジョワ的な西欧の概念」だとムード的に反発する若者の多い時代に、「共同性」がダメだから「自立せよ」というメッセージに置き換えていたのです。結果的にシンプルな考え方ゆえに、欧米の国民国家が陥ったナショナリズムの問題も越えてしまう迫力を持っていたようにも思います。
こうした普遍的な仕事の他に、吉本さんの真骨頂とも言える他の誰にも真似のできない領域が2つあります。1つは人の行き方の核にあるのは核家族という思想、突き詰めればカップルという関係だという思想です。漱石論もそうですし、「共同幻想論」「心的現象論」にも一貫していた思想ですが、今、人々の孤立が問題になっている時代に、改めて読み返す価値があるように思います。
もう1つは、思想的な「転向」への批判です。周囲の状況が変化したり、自分が成熟することで人間は考え方を変えることはあります。ですが、そのように変化した事情を自他に説明できない形で突然に保守派が左翼になったり、国際主義者が排外主義者になったりするのはダメであり、「思想の一貫性」を全うしなくてはならないというのです。一方で、実社会と隔絶したまま思想だけ維持してもダメという批判も含めているところが吉本さんらしいと思います。
政権交代によって野党的な人が権力を握ると強権化してみたり、下野した政治家が政権政党の時には決して口にしなかったような無責任な言動に走ったりする現代、この「思想の一貫性」ということは以前にもまして重要な問題になっているように思うのです。
これに付随して「大衆の原像」から乖離することで、思想の足元が揺れてしまい転向に至るという知識人の脆弱性についての指摘も吉本さんの独壇場であり、戦前の一部の共産主義者から90年代の米国のネオコンまで普遍的な意味を持つ批判として、21世紀の現在でも有効な考え方だと思います。
吉本さんには『追悼私記』という追悼文をまとめた一冊があるぐらいで、妙な表現ですが、オビチュアリの名手と言えます。中でも文庫版に収められている江藤淳に対する追悼文は、読む者の心の中心を突き刺すような痛切さを持っています。それはともかく、吉本さん自身の訃報に接して、その『追悼私記』の中の政枝さんという実の姉への追悼文(1948年)を再読してみました。
「無類に哀切な死を描き得るのは、無類に冷静な心だけである。転倒した悲嘆の心では如何にしても死の切実さは描き得ない」
で始まる文章は24歳にして、吉本さんの才能と誠実な人柄がよく現れています。思えば、このような「冷静な心」のあり方そのものを私は吉本さんに教わって育ったように思うのです。「転倒した心」では駄目だということもそこには含まれます。今はただ感謝の念しかありません。
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