コラム

アメリカで聞く坂本龍一氏のピアノ・ソロ

2010年10月20日(水)09時56分

 今週から始まった坂本龍一氏の「ノース・アメリカ・ツアー」初日は、フィラデルフィア近郊のグレンサイドという小さな街にある、ケズウィック・シアターからのスタートでした。私の住むニュージャージー中部からも近いので、このコンサートを選んだのですが、82年の歴史のある音響効果の素晴らしい劇場に多くの音楽ファンが詰めかけており、良い雰囲気のコンサートとなりました。何といっても、アメリカの音楽コンサートでこんなに聴衆が集中しているというのは珍しいのです。ニューヨークの、カーネギーホールやエブリー・フィッシャーホールなどでは、かなり厳粛なクラシックの曲目でも、咳の音だけでなく話し声やプログラムをめくる音などのノイズは諦めて掛からないといけないのですが、今回はそうした問題はありませんでした。途中ちょっと、外部のサイレンの音が聞こえたりもしましたが、それはご愛敬というところでしょう。

 私は坂本龍一氏のそれほど熱心な聞き手ではありませんでしたが、亡くなった浅川マキさんの伝説のライブ盤『灯ともし頃』でオルガンを弾いていた印象や、大貫妙子さんのソロ・デビュー・アルバム『グレイ・スカイズ』でスタインウェイのピアノを鋭いタッチで弾いていた印象は鮮烈なものがありました。その後の作曲家として、あるいはテクノポップやロックでの成功などについては、少し遠くから見ていた観があるのです。ですが、ほぼ完全な「ピアノ・ソロ」でまとめられた今回のコンサート体験は、ダイレクトに70年代の天才キーボードプレーヤー坂本龍一との出会いを想起させ、30年以上の歳月を結びつけてくれたようにも思いました。

 個人的な感慨はともかく、コンサート自体には大変にビックリしたというのが正直なところです。キーボード奏者として70年代に同氏が見せていた素晴らしさには磨きがかかり、自作と言うことを越えてとにかく圧倒的なピアノでした。『灯ともし頃』のオルガンに見られた確信に満ちた長い音の表現はグランドピアノでも同じでしたし、『グレイ・スカイズ』の印象的なアタックは、今回の自作でもより研ぎ澄まされたように聞こえました。それ以前の問題として、キーボード奏者、いやピアニストとして、坂本氏のメカニックや表現は卓越していたように思います。

 曲にも驚きました。映画音楽などでの坂本氏のアプローチは、「前衛性」と「分かりやすさ」のブレンドの妙にあるのではないかという印象で見ていたのですが、実際にオリジナル曲を一晩通しで聴いた印象は、そんなものではありませんでした。21世紀の現代を代表するピアノ曲として、どの曲も歴史に残る水準のように感じられたからです。

 何が素晴らしいかというと、私の感じたのは2点です。1つは、例えば 『hibari』のような短いフレーズが何度も何度もリフレインされる曲に見られる設計の精密さです。こうした筆法というのはミニマリズム(極小主義とか最少主義と訳されることが多いようです)といって、シンプルな点や線で抽象化した絵画や彫刻のように、洗練された静謐さなり、過剰さへの否定などを「美」とする考え方に近いと思われます。

 ですが、同時代のミニマリズムの作曲家として有名なフィリップ・グラスの作品などと比較すると、坂本作品は(1)音型が極めて抽象的でありながら自然の音に近いので特定の感情や文化からは中立、(2)それを繰り返すことによって抽象的な世界へ聴衆を連れて行くが決して過剰感はない、(3)フレーズに僅かなゆらぎ(変奏)を与える表現が極めて緻密、というような点において、より作品としては高度だという印象を持ちました。高度というのは難しいというのではなく、良い曲という意味です。

 もう1つは「全てが音楽のために奉仕している」という点です。例えば、オープニング・ナンバーであった『glacier』では坂本氏はいきなりヤマハのフルコンサート・グランドに手を突っ込んで「内部奏法」を始めたのです。ですが、それは20世紀の「前衛音楽家」に見られたパフォーマンスのためのパフォーマンスではありませんでした。ピアノの弦から擦弦音を引き出したり、ピックで弾いたりして得られる音を坂本氏は駆使して、幻想的で静謐な音楽を作りだしていったのです。また次の曲ではいきなり鍵盤を使った通常のピアノの音に回帰する、その際に観客が改めて「ピアノの音」を意識的に再発見できるという効果もあり、全てが音楽のために設計されているという感動がありました。

 ナンバーが進むにつれて、電気的に駆動される2台目のピアノと、坂本氏の弾くピアノの連弾という趣向も出てくるのですが、これもパフォーマンスではなく、曲想にマッチした響きの充実が設計されているのが明白でした。曲によっては「複雑な社会における問題解決は全ての人の声を聞くこと」というようなメッセージが背景に表示されたり、抽象的なスライドが映写されたりもするのですが、そうしたメッセージや写真は「難しい音楽を理解させるための補助的情報」でもなければ「メッセージを訴えるために音楽を使っている」わけでもないのです。メッセージやイメージが音楽に奉仕して、表現として一体化しているだけであって、その統合性のスムースさにも明らかな「美」がありました。実際に収録した自然音とのコラボも、同じように溶け合いの感覚が素晴らしかったように思います。

 会場には、多くのアメリカ人も熱心に聞いていました。日本通のように見受けられる人も多かったのですが、純粋な坂本ファンあるいは音楽ファンという感じの人も沢山いました。そうした人々に坂本作品が通用するというのは、いわゆる日本ブームなどという現象を越えて、坂本氏の芸術がホンモノだからだと思います。「クールジャパン」というのは、熱心に売り込むのも大事ですが、やはり坂本氏のように最先端の感性と問題意識を持ったアーティストが走り続けているからこそ、これだけの現象になっているのではないでしょうか。

 1つだけ、もしかしたら、ご本人やファンは違和感を持つかもしれませんが、坂本作品は自作自演だけでなく、もっともっと多くのピアニストによって取り上げられても良いのではないか、そう思ったのも事実です。その点で言えば、坂本龍一という卓越したピアニストが、「作曲者の意図を100%理解したパフォーマンス」を見せてしまっているのは少々問題かもしれません。他のピアニストにはその解釈にチャレンジしなくてはならないハンデがあるからです。ですが、そんな挑戦を受け入れるだけの価値も、この一連の作品は持っているようにも思われます。いずれにしても、今晩のボストン以降、ツアー後半の成功を心からお祈りしております。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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