コラム

「川口選手」それとも「カワグティ選手」?

2010年02月17日(水)13時43分

 ロシア代表としてSPでは3位につけていたフィギュアのペアチーム、「川口・スミルノフ組」はフリーではミスが出て4位に終わりました。このペアに関しては、「今回は若さが出たということで、これからの成長に期待したい」アメリカのNBCの中継ではそんなコメントがありましたが、正にそういうことだと思います。ちなみに、遂に五輪の栄冠をつかんだ中国の夫婦ペア、申雪選手と趙宏博選手、そして姚濱コーチの姿には、何ともいえない人生の味が感じられました。

 ところで、この川口悠子選手というのは、フィギュア・スケートの名伯楽、ロシアのモスクヴィビナ・コーチに師事したいとの思いで海を渡り、ロシア国籍を取得して日本国籍を放棄しているのです。つまり国籍に関してはロシアということなのですが、今回のバンクーバー五輪にあたっては、日本のメディアでは「川口悠子」という漢字の名前で通しているようです。ちなみに、アメリカでは "Kawaguti" という表示でしたから英語読みでは「カワグティ」ということになるのでしょうが、とにかく日本国内では「川口」になっています。

 良いことだと思うのですが、私は少々驚きました。日本の社会では、「日系人」と「日本人」の間にはかなり大きな意識の壁があり、その象徴として、日系人の名前はカタカナ表記する習慣があったからです。ペルーの元大統領は、決して藤森さんではなく「フジモリ」氏であり、ブッシュ政権のアメリカの運輸長官も峯田さんではなく「ミネタ」氏でした。川口選手と同じような例としては、トリノ五輪にアメリカ代表としてペアに出場した井上怜奈選手の例があります。アメリカに帰化した井上選手の場合は「レイナ・イノウエ」とわざわざ順序までひっくり返してカタカナにして、カッコ書きで「元日本代表の井上怜奈」などとして報道がされていました。

 同じ女子フィギュアの選手としては、アメリカ史上最高の人気を誇るクリスティ・ヤマグチ選手がいますが、彼女の場合は日系三世ということで「山口」という漢字の名前で紹介されることは皆無だったと思います。では、どうして今回は「川口選手」であって「カワグティ」ではないのでしょう? そこには、色々な理由が考えられると思います。

(1)アメリカやペルーは日系人の歴史があり、日系人が現地に同化したことを日本社会としても尊重する立場なので、相手国の名誉を重んじて、もう日本人ではないという意味からカタカナ書きをする。だが、ロシアにはそうした日系人の存在感はない。

(2)南北アメリカ大陸の日系二世や三世の場合、法律上の本名がカタカナしかなく、中には漢字のスペリングを本人も特定できない場合があるので、一律にカタカナ書きをしているが、川口選手の場合はロシアなので、そうした南北アメリカの日系人の事情とも違う。日系人の名前が、英語やスペイン語のアルファベット表記になるのなら、そこからカタカナ表記を類推できるが、ロシア文字は日本では親しみがないので、そこからカタカナにするぐらいなら、「日本人だった時の姓名」を漢字で書いてしまった方が早い。

(3)今回の五輪では、長洲未来選手がアメリカ代表で女子フィギュアのシングルに出場するが、長洲選手の場合は出生地主義と血統主義のために二重国籍で日本国籍を持っており、日本の国籍法で国籍選択宣言を要求される年齢にも達していない。というわけで、アメリカ代表であっても、長洲選手は日本人なので、日本のメディアとしては「長洲未来」と表記することになる。となると、川口選手と長洲選手を同じ記事の中で、一方だけカタカナにすることはできない。そのために、トリノの井上選手とは違って、川口選手も漢字表記にすることにした。

(4)そもそも、日本にはペアの指導体制も、ペアの相手になるような選手の層も薄い。だから「日本チームへの裏切り」ではない。トリノの井上選手の場合は、日本のシングル代表だった過去があるので、「あっちへ行ってしまった」という感覚があったが、川口選手には日本のスポーツ界としてそんな「しがらみ」はない。

 さて、正解はどうなのでしょう? 私には良く分かりませんが、恐らくは(3)を意識しながら、(1)や(2)の理論武装もした、そんなことではないかと思います。それはともかく、今後はこうした形で、国籍を離れた移民一世だけでなく、二世も三世も四世も、本人が漢字の名前を(非公式であっても)持っているのなら、日本社会としては漢字表記をして「仲間」に数える、そんな習慣が徐々に広がれば良いと思っています。縁のある日系人をわざわざ「カタカナ名」で紹介して「ソトの人」扱いするのはやはり不自然です。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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