コラム

テキサス陸軍基地乱射事件の衝撃

2009年11月09日(月)12時22分

 普通は「事件の衝撃」などというのは、言い古された表現で使いたくないのですが、今回の事件に関しては、他に言い表しようがありません。というのは、木曜日にテキサス州のフォート・フッド陸軍基地で発生し、現在までに13人が犠牲になっているという乱射事件のインパクトは激しいものがあったからです。一言で言えば、現在の米軍のあり方について、二重三重に問題を突きつけてくる、そんな事件だったからです。

 事件の現場は、派兵直前の兵士達が装備から体調、精神状態などを整えて行く施設で起きたようです。そこでアフガニスタンに派兵が決まっていながら「自分は行きたくない」と申告して「認められなかった」軍医が精神的に追い詰められて、周囲の同僚に対して乱射事件を起こしたのです。ハサンという容疑者の精神に何が起きていたのかは分かりませんし、もしかしたら永久にナゾで終わるかもしれません。ですが、派兵直前の兵士がメンタルな問題を起こしたというのは、今の米軍の脆弱性を象徴してしまうのです。

 イラクと、とりわけアフガニスタンの膠着した状況、一人一人の派兵対象兵士の中には強いストレスが重なって行く、そのことを分かっていても辞退など認められない、そんな「空気」が暴発の温床になった、この点は他にどんなストーリーを描いても消すことはできません。これは、世論に対して、そしてオバマ大統領に対して暗黙のうちに「アフガン増派は難しいのでは?」というプレッシャーとなって利いていくと思います。

 兵士のメンタルケアの問題ということでは、単に戦線が膠着しているからストレスになるというだけでなく、帰還兵士のメンタルヘルスの問題が深刻化している、今回の事件はこの観点からも深刻です。ハサン容疑者の場合、本人については戦地への派兵はこれが初回でした。ですが、精神科の軍医であるハサン容疑者は「帰還兵に頻発するメンタル面でのトラブル」を多数見てきているようなのです。多くの自殺者や、深刻なPTSDを抱える症例を見てきたことで、自分が戦地へ赴くことへの恐怖心が増幅したということは十分に考えられます。

 第3の、そして非常に込み入った問題は、ハサン容疑者がイスラム教徒の米国市民だったという点です。自身は米国生まれで、米国の高校を卒業し、その後は経済的な事情から軍籍に身を置きつつ奨学金を得て大学に進学しています。しかも、医学大学院(メディカルスクール)も卒業してMD(医学博士)の学位も取っているのです。陸軍の発表では、イスラム教徒だということは軍として承知していたが、過激思想に接近していたという記録はないというのです。ただ、最近になってイスラム原理主義系の過激な掲示板に「自爆テロへの共感」などという書き込みをしていた事実はあり、また乱射にあたっては「アッラー・アクバル(アッラーは偉大なり)」と叫んでいたという証言もあります。

 この問題をどう考えるか、陸軍として、そしてオバマ政権としては大変に頭の痛い問題です。まず、右派からは早速「穏健イスラム教徒を陸軍に入れ、そもそもイラクやアフガニスタンに派兵するというのは『政治的正当性(ポリティカル・コレクトネス)』の行き過ぎではないか」という意見が出ています。穏やかな言い方ですが、要は対イスラムとの戦いにイスラム教徒を味方に入れて裏切られたのはケシカランと言っているわけです。この問題に関しては、軍は弁明に終始していますし、政権周辺からは「イスラム教徒の兵士は何千人もおり、ハサン容疑者は例外中の例外」というコメントが出ています。

 政権や軍周辺からは、「ハサン容疑者は、元来が穏健思想の持ち主だったが、イスラム系の軍人ということで、軍の中でハラスメントの被害に苦しむ中で、原理主義に傾斜していった。その心情は特殊な事例で、メンタル面での管理失敗という位置づけをするしかない」というような解説が出ています。これに対して、例えば、2000年の選挙では民主党の副大統領候補だったユダヤ系のジョセフ・リーバーマン上院議員(現在は無所属、民主党と統一会派)などは、「アルカイダからの指令があったかどうかは関係ない」として「これは本土テロです」と断言しています。(8日朝のFOX)

 右派が「テロだ」と叫ぶのは「いかにも」という感じですし、当局は「いじめが原因の不幸な事例」といって組織をかばっているのですが、そもそも「イスラム系の現地治安部隊を、信用し、育成し、権限委譲をする」ための陸軍にはイスラム系兵士が「必要」という判断そのものを否定するわけには行きません。ここにこの問題の難しさが横たわっています。イラクもアフガニスタンも「イスラム系の穏健な現地勢力」に権限を委譲して安定化するのが最終任務であると位置づけているのに、「イスラム系兵士はテロに走る危険があるので排除すべき、それをわざわざ入れているのはポリティカル・コレクトネスの行き過ぎ」などという論理は通らないのです。

 冷静に考えればそうなのですが、どうしても右派からは「イスラム過激派の兵士が内部潜入していたのは不祥事で、同様の人間は一掃すべき」という声が断続的に出てしまうのです。今後の展開はどうにも分かりませんが、仮にホワイトハウスや軍がこの問題を上手く処理できないと、右派からは「そもそも大統領だって父親がイスラム教徒の怪しい人物ではないか」という選挙戦中に何度も繰り返された中傷が再び出てこないとも限りません。そんな中、オバマ大統領の一挙手一投足には、少しのミスも許されないということになってきました。APECへの「遅刻」とか日米首脳会談の1日順延というのも、現在のアメリカの状況を考えると、どうにも仕方のないことなのです。

 そんな中、7日の土曜日には議会下院で「医療保険制度改正案」が可決され、大統領にとっては束の間の「安堵」とでもいうべき結果になっています。ですが、上院での可決は現時点では全くメドが立っていませんし、とにかく、週明けはこの乱射事件への追悼行事と真相解明、そしてアフガニスタン戦線の動向と、政治的には綱渡りが続きます。訪日やAPEC参加の日程に関しては、まだまだ流動的と見るべきでしょう。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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