コラム

映画 『THIS IS IT』 の奇跡

2009年10月30日(金)12時35分

 アーティストがキャリアを全うせずに夭折した場合、最後の作品は未完で残されることがあります。絵画や彫刻などの「形あるもの」の場合は、未完の痛々しい姿そのものがアーチストの生と死を示すものとして残されることになります。また未完の作品を残すことを本人や遺族が嫌って廃棄することもあるでしょう。小説や論文の場合は、それこそ筆の止まった状態で残り、それを後世の人は「続きはどうなるだろう?」と想像を巡らせながら読むことになります。

 問題はポピュラー音楽です。作詞作曲したり、レコーディングしたりしたままアーチストが亡くなれば、それは遺作ということになるのですが、曲もよりますがインパクトは今ひとつになってしまいます。というのは、ポピュラー音楽というのは一般的に言って大きなステージで演奏され、大人数の観客の熱狂と一体となって完成するという部分が大きいからです。楽曲だけが「遺作の新曲」として残されても、それ自体は永遠に命の吹き込まれないまま残ってしまうことになります。

 その意味で、今回封切りがされた映画 『THIS IS IT』 というのは奇跡に近いものがあるように思います。何しろ、実現することのなかったツアーのリハーサルの記録が「未完のツアー」として一種堂々たる「遺作」に昇華しているからです。このツアーは、そもそもマイケルが「これで本当に終わり。最後のカーテンコール」として企画したものでした。ロンドンで50回という無謀なまでの回数の公演を計画し、全世界からダンサーや歌手を集めてオーディションを行うことで、偉大なカムバック公演であり、なおかつ壮大な引退公演にしようとしていたのです。

 公演直前にマイケルは亡くなり、残されたものは公演のリハーサル映像。その映像を編集して映画にしたのがこの作品なのですが、そもそもどれだけの映像が残っていたのか、そしてどんなクオリティなのか、編集はどのようにされているのか・・・ファンにとっては半信半疑だったというのが正直なところでしょう。

 アメリカでは公開が28日の水曜日ということで、話題作の通例にならって27日の火曜日の深夜0時1分から1回だけの上映が全国で行われています。私は、ニュージャージー州ハミルトンの大きなシネコンに出かけたのですが、正直なところ大入り満員というわけには行きませんでした。この日1日の興行収入が740万ドルというのは堂々たる数字ではありますが、『ロード・オブ・ザ・リング』3部作の各作品や、『スター・ウォーズ』新3部作のそれぞれが封切りされた時の深夜のお祭り騒ぎとはほど遠いものがあったのです。やはり、ファンはどこか半信半疑だったのだと思います。

 それでも深夜に駆けつけているファンは、マイケルの帽子をかぶったり、かなり思い入れの強い集団のように思われました。ですが、それほどノリが良い訳ではないのです。むしろ、何とも言えない静かな集団でした。歌になると手拍子をしている人もいましたが、全員が合わせるのでもないのです。それでも、みんな食い入るように画面に見入っていました。それは本当に不思議な体験でした。

 ツアーのディレクションを手がけ、この映画の監督でもある振付師(コリオグラファー)のケニー・オルテガ氏(ディズニーの『ハイスクール・ミュージカル』3部作の監督・プロデューサー)の手腕もあるのでしょうが、堂々たる映画であり、マイケルが「最後のツアー」に託した思いの何分の一かは確かに伝わってきたように思えたのです。観客を入れての公演は行われずじまいでしたが、多くのリハでは、スタッフが観客としてノリのよい手拍子などを舞台の下から送っている、そんな光景も微笑ましいものでした。

 晩年はスキャンダルにまみれて、実像が全く見えなくなっていたマイケルでしたが、この映画を見ることで、その存在感、才能を再認識させられるのです。とにかく、マイケル・ジャクソンと言えば、線の細い、孤高のアーチストというイメージがありましたが、それは虚像であったことが分かりました。マイケル・ジャクソンという人は、骨太のリーダーシップの取れる男の中の男だということ。かといって決してワンマンではなく、チームワークに目を配り、人を育て、人を伸ばす才覚にも富んでいたこと。それでいて紛れもない完全主義者であり、音楽の、そしてダンスの一瞬の煌めきをどう表現するかに努力を惜しんでいないこと・・・とにかく偉大な存在であったことが映像から伝わってくるのです。

 生前のマイケルは、報道を通して余りにも歪められており、本人も多くを発信できない状況にありましたが、むしろこの映画を見て、生きているマイケルの息づかい、価値観、信念といったものに初めて触れた思いがした人も多いのだと思います。その感動を実感した途端に、その当人は既にこの世の人ではないという事実が重くのしかかってくる、それでも号泣するにしては、余りにも余りにもスクリーンのマイケルは輝いている、そんな二重三重のパラドックスの中では、大きな手拍子は起きなかったのも仕方がないと思うのです。一言で言えば、マイケルの復活を確かめながら、その死を受け入れなくてはならない、そんな辛さもそこにはありました。

 主観的な感想はこのぐらいにしますが、今回の映像体験で私は「オーディオ・ビジュアル」という文化にはまだまだやることが沢山あるという思いを新たにしました。ソフトに力があれば、お客さんは集まってくるのであり、お金もキチンと払うのです。勿論、不法ダウンロードの問題は何とかしなくてはなりませんが、こと映像文化に関しては、構造的なデフレとは無縁の何かが残っており産業として、何らかの成長は可能だと思ったのです。

 マイケルの生前に少しでも彼の楽曲に親しんだことのある人であれば、映画館のスクリーンでの映像体験はかけがえのないものになるのではと思います。公開期間は2週間限定ですので、是非劇場へ足を運ばれることをお勧めします。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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