コラム

対立軸なき「臓器移植法案」に見る日本政治の希望

2009年06月19日(金)15時37分

 日本では鳩山総務相の更迭から政局がめまぐるしく動きだし、早期解散説から、麻生退陣説まで様々な報道が飛び交っています。そうした報道、そして人々の声には「日本のリーダーシップ不足」であるとか「政治後進国」という自国を卑下するようなニュアンスが伴っているようです。確かに政権交代の可能性が濃厚であっても、政策の対立軸は曖昧なままでは不安感が出てくるのは仕方ありません。

 例えば「臓器移植法」でとりあえず衆院でA案(臓器の提供条件を最も緩和する案)が通りました。この問題はどうでしょう。党議拘束もなく、特に自民・民主・公明など多くの政党では自由投票になったのです。漠然と医療技術で生命を救うという「進歩」にまだ希望を持っている人はA案賛成、死の定義変更とそこに絡むドナー候補家族の苦痛に心情移入するタイプの有権者を抱えている人は反対というニュアンスの違いはあるようです。ですが、これと改革か守旧かという対立は直接は関係がないようです。これも一見すると「対立軸のなさ=政治の脆弱」に見えます。

 確かにアメリカの場合は、対立軸があります。こうした死生観に関わる制度改定が進む場合は、必ずといって良いほど「民主党・共和党のイデオロギー闘争」になります。勿論、両党の対立軸には柔軟な面もあり、妥協や合意への仕組みも一応はできていますが、その背景には、宗教保守派と政教分離的な感性を持つリベラルの対立があります。決めやすいと言えば決めやすいのですが、発想法は単純なものです。

 では、そうしたイデオロギー論争を持たない日本という国は「政治後進国」なのでしょうか? 二大政党の対立が成熟し、オバマ大統領を生み出したアメリカに比べて、日本の民主主義は不十分なのでしょうか? 理念が機能せず、感情的なポピュリズムとそれを利用する政治家によって、折角実現した日本の近代は前近代に引きずり戻されようとしているのでしょうか? やがて、感情論の対立からイランのような暴動が起きる中、開発独裁ならぬ「縮小独裁」に陥ってマイナスのスパイラルを転落してゆくだけなのでしょうか?

 私の答えは明確です。日本は政治後進国でも何でもありません。こうした「負のシナリオ」は全く非現実的と言って良いと思います。今回の臓器移植法に対する報道や世論のムード、そして党議拘束の外された中で国会が決定の意志を持ったことには希望を感じます。硬直化した二大政党のイデオロギー闘争の枠組や、まして暴力を伴う騒乱に比べれば、日本政治にあるのは成熟だと思います。

 臓器移植法の落としどころについても、何となく日本社会は理解し始めているように思います。それは価値観の共通化は不可能という前提で、自己決定権を拡大すること、選択の機会を提供すること、それだけではありません。恐らくその先には、価値観の異なる人々が相互に相手を認め合う、つまり相対化された複数の価値観が共存する社会が可能なのだと思います。

 今回の臓器移植法の報道に見られた「どちらの立場にも一理あり」という姿勢、双方の心の声に耳を傾ける態度が多くの問題にも適用されるようになり、現実に根ざした精緻な議論と、複数の価値観の共存する中での意志決定システムが出来ていけば、政治も動き出すでしょう。仮にそれが実現できるのであれば、それは、アメリカでもイランでも考えられないような先進的な社会なのだと思います。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

関税の影響を懸念、ハードデータなお堅調も=シカゴ連

ビジネス

マネタリーベース、3月は前年比3.1%減 7カ月連

ビジネス

EU、VWなど十数社に計4.95億ドルの罰金 車両

ビジネス

米自動車販売、第1四半期は増加 トランプ関税控えS
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:引きこもるアメリカ
特集:引きこもるアメリカ
2025年4月 8日号(4/ 1発売)

トランプ外交で見捨てられ、ロシアの攻撃リスクにさらされるヨーロッパは日本にとって他人事なのか?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大はしゃぎ」する人に共通する点とは?
  • 2
    8日の予定が286日間に...「長すぎた宇宙旅行」から2人無事帰還
  • 3
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 4
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
  • 5
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「…
  • 6
    磯遊びでは「注意が必要」...6歳の少年が「思わぬ生…
  • 7
    「隠れたブラックホール」を見つける新手法、天文学…
  • 8
    【クイズ】アメリカの若者が「人生に求めるもの」ラ…
  • 9
    【クイズ】2025年に最も多くのお金を失った「億万長…
  • 10
    トランプが再定義するアメリカの役割...米中ロ「三極…
  • 1
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 2
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「最大の戦果」...巡航ミサイル96発を破壊
  • 3
    800年前のペルーのミイラに刻まれた精緻すぎるタトゥーが解明される...「現代技術では不可能」
  • 4
    ガムから有害物質が体内に取り込まれている...研究者…
  • 5
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 6
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 7
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 8
    一体なぜ、子供の遺骨に「肉を削がれた痕」が?...中…
  • 9
    「この巨大な線は何の影?」飛行機の窓から撮影され…
  • 10
    現地人は下層労働者、給料も7分の1以下...友好国ニジ…
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    「テスラ時代」の崩壊...欧州でシェア壊滅、アジアでも販売不振の納得理由
  • 3
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛ばす」理由とは?
  • 4
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山…
  • 5
    テスラ失墜...再販価値暴落、下取り拒否...もはやス…
  • 6
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 7
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 8
    テスラ販売急減の衝撃...国別に見た「最も苦戦してい…
  • 9
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story