- HOME
- コラム
- プリンストン発 日本/アメリカ 新時代
- 『天使と悪魔』に込められた「和解」のメッセージ
冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代
『天使と悪魔』に込められた「和解」のメッセージ
一部、原作のファンからは「重要なプロットを省略しすぎ」という非難が出ていますが、映画単独として見れば十分に楽しめる作品でした。映画史上に残る傑作というほどではないのですが、前作の『ダ・ヴィンチ・コード』と比較すると、本作は時代の気分にうまくシンクロしたという点があり、そこに一種のマジックが感じられたのです。
2006年の同じ5月に公開された『ダ・ヴィンチ・コード』との関係で言えば、原作については、ストーリーの時系列という意味でも、出版の順序ということでも、この『天使と悪魔』の方が先であり、映画の方は前後した形となっています。ですが、何といっても映画化というのは全世界を巻き込んだ社会現象になってゆくわけで、その意味では前回の『ダ・ヴィンチ・コード』のタイミングと、今回の『天使と悪魔』のタイミングというのは、それぞれの時代背景と不協和音になったり、シンクロしたりという点で大きな違いがあるのは興味深い点です。
それにしても前作の『ダ・ヴィンチ・コード』はかなり物議を醸しました。主としてアメリカ国外のカトリック圏から大ブーイングを浴び、キリスト教を「先輩宗教」と位置づける穏健イスラムの人々からの批判まで出るという騒動になっています。これは、(ネタバレとなって恐縮ですが)「イエス・キリストの子孫が存命」という荒唐無稽なファンタジーを「謎」として設定した上で、その「子孫」を守ってきた秘密結社や異端的な民間伝承を「善玉」とし、これに対してカトリック教会を「悪玉」に描いていたからです。
では、どうしてそれが時代との不協和音になったのかというと、アメリカのリベラル勢力の牙城であるハリウッドが、この時期に批判すべきなのは、アメリカ国内の「福音派などのプロテスタント右派」のはずなのに、どうしてカトリック批判の映画を作るのかという疑問が起きたからでした。アメリカが戦争にのめり込み、更にはヨーロッパとも距離を置いているのは、宗教右派の持っている一国主義的な感性が背景にあるのに、どうしてハリウッドは告発をしないのか、どうしてこのタイミングでカトリック叩きなのかという感覚が、アメリカ国外での映画のボイコットや反対デモなどになっていったのだと思います。
一方で、当時のアメリカの国内は、9・11以降の世相の中で漠然とカトリックに対して距離を置いていた時期でした。一部の聖職者による性犯罪事件が繰り返し取り上げられる一方で、アフガニスタン戦争回避のミサを行い反戦の姿勢を貫いたヨハネ・パウロ2世の姿勢は全く報道されないなど、アメリカの多数派の人々にはカトリックの存在感が薄い時代でした。ヨーロッパ系やヒスパニック系の多いカトリックはアメリカでは保守というより穏健リベラルという色彩があり、政治的にも無力な時代だったということもあります。『ダ・ヴィンチ・コード』が製作された背景にはそんなアメリカの事情があり、またそのためにアメリカ国外からは批判を受けたのでした。
ところが今回の『天使と悪魔』は全く違います。荒唐無稽な秘密結社が出てくるのは同じなのですが、今度はこちらが「悪玉」で、カトリック教会の方が「被害者」という枠組みが維持されるのです。また、前作では「イエスの血統」というファンタジーが中心テーマであったのが、今回は「科学と信仰の葛藤」という思想的なテーマがかなり真剣に扱われているという点、そしてその葛藤の中でカトリック教会が取ってきた立場に十分に理解を示しているという点が大きく異なっています。法王の死と、新法王を選出する選挙「コンクラーベ」の開催についても丁寧に描いており、バチカンへの敬意は明らかでした。
結果的に、前作に関しては強く不快感を示したカトリック教会からは、本作に関しては「罪のない娯楽」(バチカン系の雑誌の批評記事)という評価になっています。勿論、実際の教会での暴力シーンをともなう撮影を許可してもらうわけには行かなかったようですが、前作に比べればはるかに平和的な結果になっています。
ストーリーについては、これからご覧になる方も多いと思うので一切お話はできませんが、今回の作品ではトム・ハンクスが演じた謎解き役の主人公、ラングドン教授よりも、若手聖職者を演じたユアン・マクレガーの存在感が目立ちました。特にコンクラーベの行われている聖堂に乗り込んで「カトリック教会が科学至上主義と対決してきたのは、科学という余りにも日の浅い思想への危険性を指摘し、科学の暴走をスローダウンさせる意味があったのです」と述べる大演説は圧巻でした。
勿論これはガリレオ・ガリレイの「地動説」を否定した往年のバチカンを擁護するといった、現代では荒唐無稽な内容ですし、本誌のインタビューで語っているようにマクレガー本人の信念とも無関係です。にもかかわららず、マクレガーの演技は実に素晴らしく、こうした保守的な立場にも一定の説得力が与えられているのです。これに学問的な立場から無神論を貫くラングドン教授、科学の進歩に懐疑を抱いてゆく最先端技術の女性研究者、更には科学至上主義の立場からバチカンを攻撃してくる「秘密結社」と、立場の異なる人物達が配置され、かといって退屈な論争は一切なく、葛藤がストーリーとアクションに帰結する分かりやすい作りになっていました。
こう申し上げると、オバマ大統領の民主党政権になってアメリカの科学界は「ヒトES細胞」や「iPS細胞」の研究などへの姿勢が積極的になり、ブッシュ政権時代とは打って変わって自由な雰囲気になってきているはずなのに、どうして水を差すような映画が作られたのか、そんな疑問を抱く方もあるでしょう。事実、アメリカの一部の批評家からは「まるで中世の暗黒時代のような宗教的立場を肯定している」という批判も出ています。
ですが、やはりこの映画は「オバマ時代」の映画なのです。アメリカが、少し腰を低くしてヨーロッパ的な世界に歩み寄ろうとしている、そんな姿勢が感じられるのがまず一つ、そして科学至上主義は変えないけれども宗教の立場から科学への懐疑や批判がされることには耳を傾けよう、そんな和解とコミュニケーションのメッセージは、やはり極めて同時代的だと言えます。
更に言えば、『ダ・ヴィンチ・コード』にはなかった自国の宗教右派への批判がほんの少し入っているという見方も可能です。福音派を中心としたアメリカの宗教右派というのは、生命倫理の問題、つまり「人間そのものへの改変」にはうるさく文句を言ってくるくせに、核エネルギーの利用などの先端科学を含めた「自然への改変」については「神に選ばれた人間は何をやっても構わない」という立場を取っているからです。
この『天使と悪魔』ですが、観客動員に関しては、記録的なベストセラー小説の映画化であった『ダ・ヴィンチ・コード』に比べるのは酷というものです。そうは言っても、初日の興行収入が一日で1650万ドル(約16億円)と数字的には大健闘しており今年の夏の大作シーズンの幕開けを飾る作品になりました。政治経済が先行したオバマ時代のスタートですが、カルチャーの世界も少しずつ新しい時代の匂いを反映しつつあるようです。
環境活動家のロバート・ケネディJr.は本当にマックを食べたのか? 2024.11.20
アメリカのZ世代はなぜトランプ支持に流れたのか 2024.11.13
第二次トランプ政権はどこへ向かうのか? 2024.11.07
日本の安倍政権と同様に、トランプを支えるのは生活に余裕がある「保守浮動票」 2024.10.30
米大統領選、最終盤に揺れ動く有権者の心理の行方は? 2024.10.23
大谷翔平効果か......ワールドシリーズのチケットが異常高騰 2024.10.16
米社会の移民「ペット食い」デマ拡散と、分断のメカニズム 2024.10.09