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ニューズウィーク日本版編集部 From the Newsroom
鈴木宗男の10年、日本の10年
鈴木宗男氏を初めて見たのは2000年6月の総選挙だった。当時自民党総務局長だった鈴木氏は、自民党と連立を組んでいた保守党の故中西啓介の出陣式に出るため和歌山市にあった選挙事務所にやって来た。
防衛庁長官まで務めたベテランなのに、経済事件や家族のスキャンダルで満身創痍だった中西は無所属の新人に追いまくられ、「おそらく落ちる」が和歌山政界の一般常識だった。出陣式の様子でその趨勢を確かめようと隣のビルの階段の踊り場から見ていると、背は小さいがピョコピョコとやたら元気に動き回る男が何度も中西の事務所前を横切る。その傍らにはなぜか長身で背広姿の黒人男性。それが鈴木氏(と秘書のムルアカ氏)だった。
「あれはえらくなる人やで」と、踊り場で同じように事務所前を見つめていた中西の秘書の1人が言ったのを今も鮮明に覚えている。田中派、竹下派の流れをくむ小渕派売り出し中のホープとして、その存在に注目が集まり始めた時期だった。確かに演説はエネルギッシュ、聴衆を引き付ける人間臭さも十分。何より頭の回転の速さと政治家としての凄みが、30メートル離れた階段の踊り場にまで伝わってきた。
その後、鈴木氏は周知のとおり田中真紀子外務大臣とのバトル、ムネオハウス疑惑と別件のあっせん収賄容疑での逮捕・起訴、佐藤優氏の「国策捜査」批判による援護射撃と新党大地代表としての政界返り咲き......と、浮き沈みの激しい怒涛の10年間を送った。鈴木氏のこの10年は、日本のこの10年の歩みとシンクロしている。
01年に小泉政権が誕生したあと鈴木氏が「国策捜査」によって排除されたのは、一部外務省官僚との関係悪化で始まったバッシングがきっかけだった。しかし「鈴木宗男」をメーンストリームから押し出そうとした政治闘争の本質は、「小さな政府vs大きな政府」という経済政策論争にあったはずだ。
「聖域なき構造改革」を掲げた小泉政権が目指したのは、突き詰めれば「天は自ら助くる者を助く」的社会の実現。「人に頼るのではなく、まず自分が頑張ることで経済(そして社会)はよくなる」という考えだ。対する鈴木氏の小渕派(のちに橋本派)はバラマキ型政治の総本山。バラマキというと言葉の響きは悪いが、要は「どうしても弱い者は生まれるから、そういう人は社会全体で助けるべき」という思想といってもいい。
鈴木氏とともにニューディール的政策を排除した小泉政権だが、5年間進めた「自力更生路線」は痛みに耐えかねた日本社会の猛反発を受け、その後の鈴木氏の「復権」と歩みを合わせるように、安倍、福田、麻生政権と徐々に軌道修正を余儀なくされた。公共事業中心でもなく市場万能主義でもない「第3の道」を目指す民主党に政権交代してもトンネルの出口は見えず、その苛立ちから「構造改革アゲイン」的な空気がまた日本社会に流れ始めている。
12月6日午後1時過ぎ、収監のため出頭する鈴木氏を東京高検前で見た。10年ぶりに見る鈴木氏からはすっかり以前の脂ぎった感じが消え、病気のせいもあるだろうが、長い闘争で疲れ切っているように見えた。服役は未決拘留期間を除いた1年半程度になると見られている。ただその後5年間公民権が停止されるから、最速で政界復帰できたとして69歳。その影響力は限定的だろう。
「今日の朝ごはんは何ですかっ?!」というある意味すごい最後の質問に答えないまま、鈴木氏は高検の玄関に消えた。時代は再び「鈴木宗男なもの」を押し流そうとしている――今回の収監劇がその象徴のように思えてならなかった。
――編集部・長岡義博
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