欧州6カ国対抗戦のスコットランド戦の前に「アイルランズ・コール」を歌う(2019年2月、エディンバラ) LEE SMITH-REUTERS
<南と北で属する国家は違っても「2つのアイルランド」が1つの代表に声援を送る理由>
ラグビー世界ランク1位の強豪アイルランド代表が9月22日、日本で開催中のワールドカップ(W杯)に登場した。試合前に流れる歌は、アイルランド共和国の国歌でもイギリス領北アイルランドの歌でもない。
選手たちを鼓舞するのは、この種の国際イベント用に特別に作られた「アイルランズ・コール」。歌詞にはアイルランド分断の歴史は一切出てこない。少なくともラグビーの国際試合では、「2つのアイルランド」が1つの代表チームに一致して声援を送る。
アイルランドでは何世紀もの間、激しい宗教的・政治的紛争が繰り返されてきた。1922年にカトリック教徒主体の南部が自治領「アイルランド自由国」として成立してからほぼ100年。イギリス統治下に残ったプロテスタント主体の北部との間には、今も敵対感情がある。
スポーツも例外ではない。サッカーでは全アイルランドの代表チーム結成は望み薄だ。しかし、ラグビーでは「アイルランズ・コール」の歌詞にあるとおり、選手たちが文字どおり「肩と肩を並べて」試合に臨む。
ラグビーという競技の歴史を考えると、この分断を超えた善意の発露はさらに感慨深い。ラグビーが独自の競技として発展し始めたのは19世紀半ばのイングランド。イギリスの支配階級を教育するエリート向けの寄宿学校と切っても切れない関係にあった。そしてアイルランドでは、彼らは植民地支配の象徴として怒りと恨みの対象だった。
独立闘争を展開した民族主義者はラグビーに「よそ者のスポーツ」のレッテルを貼り、代わりにゲーリックフットボールやハーリング(アイルランド式ホッケー)といったアイルランド独自の球技を推奨した。しかし、ラグビーの魅力はあらがい難いものだった。急成長する中流層はすぐラグビーに飛び付き、間もなくアイルランドラグビー協会(IRFU)が発足した。
選手たちにとっては、アイルランドは常に1つであり続けた。1921年に終わった激しい内戦の結果、南部の分離独立が決まったが、IRFUは新しい国境を無視することにした。ラグビーは南北両方の私立学校でプレーされていたし、ブルジョア階級の多くにとって学生時代の古い絆は地図上の新しい境界線よりも重要だった。
「(IRFUの)メンバーの社会階層と政治的立場のせいもあって、全アイルランドを統括する制度が維持された」と、アルスター大学ベルファスト校スポーツ学部のケイティ・リストンは言う。