コラム

タイム誌「今年の人」に選ばれたメルケル独首相の挑戦

2015年12月17日(木)17時00分

 しかし、ハンガリーの首相オルバンがブダペストの駅で難民を排除し、欧州が国際的な批判を浴びるに及んで、メルケルは一転、シリアなどからの難民の受け入れを表明した。第二次大戦のナチスによるユダヤ人虐殺という暗黒の歴史がドイツに正しい行いを迫ったという側面はあるが、メルケルは政治を志した原点に立ち返ったのだろう。

 恐怖や死からの自由、移動の自由、精神の自由を認めることが平和と繁栄をもたらすという自ら歩んだ人生から学んだ信念だ。メルケルに勝算があったわけではない。欧州を目指す長大な難民の列を押しとどめることはできない。東から西への自由を求める人の流れがベルリンの壁を突き崩したのと同じように歴史が動いていた。

 メルケルは今、良心の代償に直面している。今年に入ってドイツに流入した難民は100万人に達した。この調子で難民が増え続け、家族も呼び寄せるとなると、いくら経済力のあるドイツでもとても面倒を見切れない。ドイツという国の形も変わってしまう。

欧州にはメルケルに代わる選択肢はないが

 パリ同時多発テロもあり、最近の世論調査でドイツ人の62%が受け入れの上限を設けるべきだと答えている。独財務相ショイブレはメルケルを「雪崩の危険を冒す軽率なスキーヤー」にたとえて批判した。姉妹政党・キリスト教社会同盟(CSU)党首ゼーホーファーもメルケルの「誤り」を指摘した。こうしたことから、「メルケルは難民問題で必ず行き詰まる」「終わりの始まり」という声が聞こえてくる。

 ショイブレは2017年の総選挙では75歳になっている。ゼーホーファーもメルケルに反旗を翻したわけではない。ハンガリーの首相オルバンもギリシャの首相チプラスもメルケルの相手ではない。EU離脱・残留を問う国民投票を16年にも実施する英国の首相キャメロンでさえメルケルの手のひらで転がされているようなものだ。

 シンクタンク、欧州外交評議会(ECFR)のアルムート・メーラー・ベルリン事務所長は筆者にこう語る。「街角にまで難民はあふれ、ドイツは深刻な状況に直面しています。しかしドイツにも欧州にもメルケルに代わる選択肢はありません。これまでの実績を見ても、彼女は必ずやり遂げると有権者は信じています」

 旅券なしで自由に行き来できるシェンゲン圏の境界警備の強化、大量のシリア難民を抱えるトルコとの協力、EUでの難民受け入れの分担、そしてドイツで受け入れる難民数の抑制策。メルケルは複雑な多元方程式の最適解を必ず見つけ出し、17年の総選挙で4選を果すだろうとメーラー所長はみる。

 メルケルが行き詰まるということは、移民排斥や反イスラム主義を唱えるフランスの国民戦線など極右勢力が欧州の未来を左右するということだ。

プロフィール

木村正人

在ロンドン国際ジャーナリスト
元産経新聞ロンドン支局長。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『欧州 絶望の現場を歩く―広がるBrexitの衝撃』(ウェッジ)、『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。
masakimu50@gmail.com
twitter.com/masakimu41

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

イスラエルがガザ軍事作戦を大幅に拡大、広範囲制圧へ

ワールド

中国軍、東シナ海で実弾射撃訓練 台湾周辺の演習エス

ワールド

今年のドイツ成長率予想0.2%に下方修正、回復は緩

ワールド

米民主上院議員が25時間以上演説、過去最長 トラン
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:引きこもるアメリカ
特集:引きこもるアメリカ
2025年4月 8日号(4/ 1発売)

トランプ外交で見捨てられ、ロシアの攻撃リスクにさらされるヨーロッパは日本にとって他人事なのか?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大はしゃぎ」する人に共通する点とは?
  • 2
    8日の予定が286日間に...「長すぎた宇宙旅行」から2人無事帰還
  • 3
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 4
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
  • 5
    磯遊びでは「注意が必要」...6歳の少年が「思わぬ生…
  • 6
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「…
  • 7
    イラン領空近くで飛行を繰り返す米爆撃機...迫り来る…
  • 8
    【クイズ】アメリカの若者が「人生に求めるもの」ラ…
  • 9
    「隠れたブラックホール」を見つける新手法、天文学…
  • 10
    あまりにも似てる...『インディ・ジョーンズ』の舞台…
  • 1
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 2
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「最大の戦果」...巡航ミサイル96発を破壊
  • 3
    800年前のペルーのミイラに刻まれた精緻すぎるタトゥーが解明される...「現代技術では不可能」
  • 4
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 5
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 6
    ガムから有害物質が体内に取り込まれている...研究者…
  • 7
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 8
    一体なぜ、子供の遺骨に「肉を削がれた痕」が?...中…
  • 9
    「この巨大な線は何の影?」飛行機の窓から撮影され…
  • 10
    現地人は下層労働者、給料も7分の1以下...友好国ニジ…
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    「テスラ時代」の崩壊...欧州でシェア壊滅、アジアでも販売不振の納得理由
  • 3
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛ばす」理由とは?
  • 4
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山…
  • 5
    テスラ失墜...再販価値暴落、下取り拒否...もはやス…
  • 6
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 7
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 8
    テスラ販売急減の衝撃...国別に見た「最も苦戦してい…
  • 9
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story