コラム

ナショナリズムを刺激する「軍艦島」の、世界遺産としての説明責任は重い

2020年07月27日(月)18時40分

重要なのは、この「明治日本の産業革命遺産」が、他の日本国内の世界遺産と比べても、日本人のナショナリズムを大きく刺激するものになっている事である。背景には、日本人が学校等で学んできた「国民史」の構造がある。日本の「国民史」では、江戸時代までは国際社会との限定的な関りしか持たない記述が比較的淡々と続く一方で、明治以降になると一挙に世界が視野に入り、その中で「文明開化」に成功し、列強の一員と登り詰めるまでの姿が大きくクローズアップされる構造になっている。だからこそ多くの日本人にとって明治以降の歴史は、「先人」そして更には「日本人」の「偉大さ」を強く認識させるものとなり、特殊な意味を持つ事になっている。野田市長が同じ県内の優れた文化遺産である筈の平泉とは異なり、産業革命遺産を「DNAに刺さる」と表現するのも、日本の「国民史」においては、明治以降の歴史に特殊な意味が持たされているからに他ならない。

明治という誇り

しかし、それは飽くまで、日本の「国民史」において、の話にしか過ぎない。当然の事ながら、日本以外の人々にとっては、「日本人」の「偉大さ」が歴史上のどの部分で語られるかという、日本の「国民史」上の問題は関心の外にあり、彼らは同じ歴史的事象について、異なる文脈からの異なる意味付けを以てするからである。言うまでもなくその典型は、韓国をはじめとする、日本による植民地支配や侵略戦争の被害を受けた国々のそれになる。韓国にとっては、彼らの「国民史」上、明治以降の日本の近代化の歴史は、日本がアジア諸国に帝国主義の手を伸ばすまでの前段階としての意味しか与えられず、その発展に肯定的な意味合いは与えられていない。だからこそ、彼らの「国民史」的理解に立てば、日本政府による肯定的な意味合いを込めた、明治期産業遺産の世界遺産としての登録の動きに反発するのは、当然だとすら言える。加えて言えばこの登録に至る過程においては、中国政府もこの韓国の反発に同調する動きを見せており、ここでもまた、同じ歴史遺産に対する、異なる「国民史」上の理解を垣間見る事が出来る。

しかしながら、この様な韓国や中国の主張は、明治期の近代化の過程を、「日本人」の「偉大さ」を示すものとして位置づけ、自らの国民的アイデンティティを支える重要な歴史の一部だと認識する日本人にとっては、彼らが単なる歴史的事実を巡る論争を超えて、自らの日本人としてのアイデンティティに挑戦するものだと映る事になる。こうして日本と周辺諸国はその「歴史認識」において激しく対立し、その対立は第三国の前でも展開される事となる。

プロフィール

木村幹

1966年大阪府生まれ。神戸大学大学院国際協力研究科教授。また、NPO法人汎太平洋フォーラム理事長。専門は比較政治学、朝鮮半島地域研究。最新刊に『韓国愛憎-激変する隣国と私の30年』。他に『歴史認識はどう語られてきたか』、『平成時代の日韓関係』(共著)、『日韓歴史認識問題とは何か』(読売・吉野作造賞)、『韓国における「権威主義的」体制の成立』(サントリー学芸賞)、『朝鮮/韓国ナショナリズムと「小国」意識』(アジア・太平洋賞)、『高宗・閔妃』など。


あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

インフレ上振れにECBは留意を、金利変更は不要=ス

ワールド

中国、米安保戦略に反発 台湾問題「レッドライン」と

ビジネス

インドネシア、輸出代金の外貨保有規則を改定へ

ワールド

野村、今週の米利下げ予想 依然微妙
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:日本時代劇の挑戦
特集:日本時代劇の挑戦
2025年12月 9日号(12/ 2発売)

『七人の侍』『座頭市』『SHOGUN』......世界が愛した名作とメイド・イン・ジャパンの新時代劇『イクサガミ』の大志

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価に与える影響と、サンリオ自社株買いの狙い
  • 2
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 3
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だから日本では解決が遠い
  • 4
    キャサリン妃を睨む「嫉妬の目」の主はメーガン妃...…
  • 5
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」…
  • 6
    ホテルの部屋に残っていた「嫌すぎる行為」の証拠...…
  • 7
    兵士の「戦死」で大儲けする女たち...ロシア社会を揺…
  • 8
    人生の忙しさの9割はムダ...ひろゆきが語る「休む勇…
  • 9
    『ブレイキング・バッド』のスピンオフ映画『エルカ…
  • 10
    仕事が捗る「充電の選び方」──Anker Primeの充電器、…
  • 1
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 2
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価に与える影響と、サンリオ自社株買いの狙い
  • 3
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」が追いつかなくなっている状態とは?
  • 4
    兵士の「戦死」で大儲けする女たち...ロシア社会を揺…
  • 5
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 6
    ホテルの部屋に残っていた「嫌すぎる行為」の証拠...…
  • 7
    戦争中に青年期を過ごした世代の男性は、終戦時56%…
  • 8
    キャサリン妃を睨む「嫉妬の目」の主はメーガン妃...…
  • 9
    イスラエル軍幹部が人生を賭けた内部告発...沈黙させ…
  • 10
    人生の忙しさの9割はムダ...ひろゆきが語る「休む勇…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 4
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 5
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 6
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 7
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 8
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 9
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 10
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story