前回寄稿へのリアクションから、私が今感じること
当然、後ろ向きな感想も少ないながらも頂戴しました。長年、重い知的障がいを抱えたお子さんを50年近く、成人後もご苦労されながら家族で面倒を見られ、自宅のそばで不慮の事故でなくなった際に「亡くなって良かったんだ」と親御さんがおっしゃったとのこと。礼節をわきまえて書かれていましたのでこちらが不快に思うことはありませんが、誰もが支え合う社会にと言ってもキレイごとでは済まされないとの主旨と思います。
障がいが重ければ身の回りの危険を察知するのも大変難しくなります。はたから見ればご家族は大変なご苦労をされていたと映ったかもしれませんし、近所の方に実際ご迷惑をかけていたのかもしれません。それでも、「亡くなって良かったんだ」との発言はご家族の本心ではないと思います。逆説的になりますが、手厚いご家族のケアの中で生活をされていたからこそ50年の生涯を全うされたのだと思いますし、子どもを愛おしむ気持ちがないまま、義務感や惰性でそれだけの長期間、身内だけで面倒を見ることはできなかったはずです。むしろ、表向きに「亡くなって良かったんだ」と言わなければならなかったご家族の心情は察して余りあるものがあります。家族が追い詰められていたことはなかったのか。地域の公的ケアを利用することが出来なかったのか。皆で支え合う社会にというのはそうしたことも踏まえてのことです。
障がいがないに越したことはありません。自分の娘に障がいがなかったらと思うことは私にもいくらだってあります。しかし、だからと言って障がいが「悪い」ことかと言えば、つまるところ、良い・悪いで判断するようなものではなく、所与の事実としてそこに歴然と存在するものであり、それ以上でもそれ以下でもないと言うことに尽きます。
誤解を承知の上で。障がいと自然災害は似ているところがあります。地震、火山の噴火、台風、落雷等々、一個人としてはどれもできれば遭いたくないものですが、この地球が活動している以上、我々生物がそれを完全に避けて通ることはできません。災害があることを前提に備え、一度遭遇すれば被害を最小限に、復旧復興のために民・官問わず手を差し伸べます。自然災害はないに越したことはありませんが、良い・悪いの判断を超えて、誰もがそこにあるもの、不可抗力として受け止めているはずです。
多くの障がいもまた、人類が脈々と命のバトンを次世代へと繋ぐ中ではどうしても誰かが引き受けなければならないものです。あなたや私が何不自由なく生活できているのは、人類が背負うべき不可抗力を誰かが代わりに背負ってくれているから。不可抗力はあなたにも私にもふりかかり得る。そんな風には考えられないでしょうか。そうすれば、たまたまそうした重荷を引き受けてくれた誰かへ手を差し伸べることは無駄なことでも、経済効率の悪いことでもなく、そういった範疇をすべて超えて社会として引き受けるのが当然、皆で支え合いながら価値を創造していく社会にと思えるのではないでしょうか。
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