サウディ・イラン対立の深刻度
一方で、サウディアラビアは9.11同時多発テロ事件以来、欧米諸国から「?」をもってみられるようになった。「9.11テロの実行犯の多くがサウディ人じゃないか」とか、「ISの過激思想の根源にはワッハーブ派がある」とか、「サウディからISに合流する人口は、アラブ諸国のなかでチュニジアに次いで二番目に多い」、などなど。批判の矢が向くたびに、サウディは欧米諸国を喜ばすことをしなければならない。議会の設置だの、選挙制度導入だの、女性参政権だのが、それである。平行して、対テロ対策もしっかりせよ、といわれる。「もっと真剣に過激派対策をせよ」という圧力が強まる都度、なにかしなければならない。
年頭に死刑が執行された47人の多くは、アルカーイダ系の過激派だった。だが、アルカーイダやISにつながる厳格なワッハーブ思想に共鳴するサウディ国民が、いないわけではない。となれば、スンナ派の「過激派」ばかりを取り締まってシーア派の「過激派」を処刑しないのはけしからん、との王政批判が出てくる危険性もある。そこで、シーア派のニムル・アルニムル師の死刑執行、という流れが生まれたのだ。
では、ニムル師の存在は、どれほどサウディにとって危険だったのか。
① サウディアラビア東部出身のニムル師は、90年代にイラン留学から帰国して以降、社会格差に不満を持つシーア派の若者に人気を博した。従来の在サウディ・シーア派社会が伝統的に政府との協調路線をとってきたのに対して、それに飽き足らない若者の不満を代弁したのだ。
② ニムル師が本格的にサウディ政府に危機感を抱かせたのが、「アラブの春」。隣国バハレーンで、人口の多数を占めながら政治中枢からはずされたシーア派住民を中心とした反政府デモが激化する一方で、サウディ東部でも反政府デモが起きた。民衆の反王政の波が高まることを恐れて、サウディ王政は「アラブの春」を抑えにかかる。自国はもちろん、隣国バハレーンにすらGCC軍を派兵した。
③ ところが、ウィキリークスによると、リヤドの米大使館は2008年の段階でニムル師を「反米でも親イランでもないし、そんなに過激でもない」と評価している。多くの湾岸研究者が、湾岸のシーア派社会はイランの子飼いでも手先でもない、と指摘している。
2014年10月にニムル師に死刑判決が下ってから、世界中で反対運動が起きていた。アムネスティ・インターナショナルやヒューマン・ライツ・ウォッチなどの人権団体はむろんのこと、自由と民主主義を守るアメリカのシンクタンク、フリーダムハウスなど、15のNGOが死刑判決取りやめの陳情を、ケリー米国務長官に提出している。アルカーイダ系過激派の処刑とバランスを取るためにニムル師を処刑、というのはいかがなものか、というのが、国際社会の反応だろう。
そう、問題は、ニムル師の死刑執行が、国内世論への配慮とか地域覇権抗争の処理のために取られたものであるわりには、社会的にコントロール不可能なほどのインパクトを持っていることだ。国交断絶まで行ったことに危機感を抱きつつも、メディアの間には、「でももともと関係良くなかったんだし、80年代の終わりに断交したときもすぐ国交回復したし」という意見もある。確かに、「神なき世界政治の現実」に即せば、直接衝突という割に会わない行動は、両国ともに取りたくないだろう。
だが、対立がエスカレートしたあげくに何が見えてくるのか、落としどころがみえない。両国で手の内を完璧に読みあっていれば別だが、水面下で腹の探りあいができているかどうかすら、怪しい。
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