コラム
酒井啓子中東徒然日記
エジプト:サラフィー主義者がやってきた!
1月21日に発表されたエジプトの人民議会選挙結果で、ムスリム同胞団の政治組織である「自由公正党」が多くの議席を確保するだろうことは、大方予想されていたことだが、第二党に保守派のサラフィー主義者たちが来るとは思わなかった――。たいていのメディアや評論家、研究者はそう思ったに違いない。サラフィー主義とは、現状を改革するうえでその模範を初期イスラームに求める、すなわちサラフに回帰しようという考え方だ。単に過去のイスラームに戻れという考えもあれば、近代化を取り入れ硬直化したイスラームの伝統から脱却してこそ、純粋なイスラームに戻ることができる、という考えもある。
最近は、イラク戦後のイラクで盛んに反米活動を行った勢力にサラフィー主義者がいた、と報じられることが多かったので、サラフィー主義者=反米テロリスト、というイメージが流布している。観察しているわれわれ以上に、世俗主義でリベラルなエジプトの知識人たちの間には、「2011年の革命がイスラーム主義者に乗っ取られた!」と危機感を感じている者も多い。
ただ、本来のサラフィー主義は、基本的に政治への関与を否定する立場だ。むしろ、「(どんな政府でも)お上にたてつくのは望ましくない」との姿勢を取る。なので、90年代以降新たに出現した暴力的サラフィー主義者のことを、そうした非政治派と分けて「ジハード主義サラフィー派」と呼ぶ学者もいる。
エジプトのサラフィー主義者は、基本的に政治に関わらないはずだった。ところが昨年5月に「ヌール党」(御光党、といったくらいの意味)を結成すると、年末から年初めまで行われた人民議会選挙で、全議席の四分の一を獲得したのだ。第一党の「自由公正党」の議席とあわせると、イスラーム主義者が全議席の四分の三を獲得したことになる。
「御光党」が選挙で躍進したことは、リベラル世俗主義勢力にとってはもちろんだが、サラフィー主義者自身にも困惑とジレンマを与えている。サラフィー主義の本家本元、サウディアラビアの保守的宗教学者たちの議論を見ると、「動乱期にはイスラーム教徒は静かに情勢を見守っているのが筋。その動乱の中に身を投じるなど、してはいけないこと」とか、「サラフィー主義は既存の支配者に従うか、サラフィー主義の信条以外の政治に関わってはいけない」とか、御光党の設立自体に否定的な意見が多い。
だが、選挙に打って出て政治に関わった以上は、御光党もさまざまな妥協を強いられることになる。選挙後エジプトを訪問したカーター元米大統領はムスリム同胞団との幹部とも会見したが、御光党の幹部も会った。また今後イスラエルとの関係を聞かれて、御光党は「それを含めてエジプトが署名した条約はすべて尊重する」と述べ、さらには「イスラエルとの交渉にも応じる」とまで言ったようだ(このニュースを、レバノンの反イスラエル・イスラーム主義政党のヒズブッラーが経営する放送局『マナール』が報じた、というのが、なかなか意味深である)。
政治的駆け引きでの妥協という点で、大先輩格にあたるのがムスリム同胞団だ。議会選挙後、議会開会初日に繰り広げられた御光党と同胞団の以下のやり取りは、ほほえましいながらも緊張感に溢れている。その引用で締めくくろう。
「開会とともに、突然御光党議員が立ち上がって、礼拝を始めようとした。自由公正党出身の議長は、『そんなことを許可した覚えはありませんよ。礼拝ならモスクでしなさい』と制した。しかし、御光党議員は、耳を貸さない。すると議長は言った。『あなたはその家の家主の許可なく礼拝を呼びかけているわけで、それは違反です!』
今後議会政治と宗教を巡って展開されるであろう両イスラーム主義者の議論が、楽しみだ。
この筆者のコラム
イラク・ファッルージャ奪回の背景にあるもの 2016.05.27
ザハ・ハディードの死 2016.04.01
エジプト・イタリア人学生殺害事件を巡る深刻 2016.03.15
イラク:前門のIS、後門の洪水 2016.02.05
サウディ・イラン対立の深刻度 2016.01.06
イラク・バスラの復興を阻むもの 2015.12.26
パリとシリアとイラクとベイルートの死者を悼む 2015.11.16