コラム
酒井啓子中東徒然日記
旧ユーゴスラビア訪問雑記(その2)
芸術の秋。東京の国立新美術館では現在「ハプスブルグ展」が開催されている。華麗な王女たちの肖像画や宮廷画家の名作が話題を呼んでいるが、筆者にしてみれば、ハプスブルグ家といえば、19世紀から第一次大戦まで中欧で勢を誇ったオーストリア・ハンガリー帝国の王家だ。
九月に訪問したボスニアでは、第一次大戦と帝国の終焉の契機となった「サライェヴォ事件」、つまりオーストリア皇位継承者のフェルディナンド夫妻が暗殺された現場にも行ってきた。サライェヴォ市内を流れるミリャッカ川沿いの大通りに、生々しい当時の写真が掲げられている。川の対岸には、小高い丘。90年代のボスニア内戦の時には、丘の向こうからセルビア軍がこの街に激しい空爆を行った。建物のあちこちに、砲弾のあとが残る。ボスニアを含むバルカン半島は、今も昔も「ヨーロッパの火薬庫」だ。
バルカン半島がなぜ常に火種とみなされるのか。その理由のひとつが、複雑な民族構成である。このことを考えるときに重要なのが、このオーストリア・ハンガリー帝国とその東のオスマン帝国という、多民族を抱える帝国の存在だ。バルカン半島の諸民族は、19世紀以降常に帝国間抗争の最前線に巻き込まれてきた。
特にオスマン帝国という国は、民族ではなくイスラームに基づいて統治されていた。帝国のなかで生きていく上で、イスラーム教徒であれば、民族は基本的に関係ない。自分が何民族なのか、ということがさほど重要ではないシステムのなかで、人々は生活していた。
それが近代以降、ヨーロッパから、民族自決の考え方が入ってくる。多民族社会のなかに、独立とか国家の主権とか、あるいは独立国家の閣僚ポストとか、現実の政治経済的権利が絡んでくれば、紛争が起きる。それは、すでにそこにあった民族同士が戦いあう、というのではない。ボスニアでは、ムスリム人もクロアチア人もセルビア人も、言葉も文化も同じ社会の一員だったのだが、紛争を生き延びるために、自分が何民族なのかを規定しなければならない状況におかれた。
中東が抱える諸紛争もまた、同様の問題を抱えている。ユーゴスラビア同様に、「民族・宗派対立が複雑」といわれるレバノンや現在のイラクも、実のところその対立は、そのときの政治状況、国際環境によって引き起こされた要素が強い。レバノンはイスラエルからのパレスチナ難民の流入によって、イラクはいわずと知れたイラク戦争によってである。
もともとあった民族が対立しあっている、と考えると、わかりやすく見える。だが、旧ユーゴや中東地域を訪れると、主義主張や経済利益や政治的特権、他国との関係や国際社会の介入などによって、かつて共存していた人々がいかに「民族」の名で引き裂かれていったか、実にヴィヴィッドに浮き上がるのだ。
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