コラム

長期的にはわれわれはみんな死んでいるのか

2012年06月15日(金)18時25分

 ケインズの「長期的には、われわれはみんな死んでいる」という言葉は、彼の経済についての考え方を示す有名な言葉である。これに対して、ラグラム・ラジャン(シカゴ大学)は「長期的には、われわれは死んでいない。大不況から回復しているだろう」という。

 これは古くから経済政策をめぐって行なわれてきた論争である。ケインズは、大恐慌のような非常事態では価格が「長期的に」雇用を調整するのを待っているわけには行かないので、政府が財政支出を増やすべきだとした。こういう政策が70年代までは主流だったが、こうした裁量的な財政政策が非効率な公共事業をもたらしたため、最近は先進国では財政による景気対策は行なわれなくなった。

 ところが2008年の金融危機は、ケインズ理論をよみがえらせた。自民党は「200兆円の国債を発行して公共事業をやれ」という法案を国会に提出した。ポール・クルーグマン(プリンストン大学)は、彼の『この不況を今すぐ終わらせろ!』という近著では、オバマ政権の公共事業が少なすぎると批判し、思い切ったインフラ投資をすべきだと論じている。

 これに対して、ラジャンやマンキューなどの「主流派」は冷淡だ。ラジャンがForeign Affairsに寄稿した論文では、オバマ政権の公共事業は失業率を改善しなかったし、FRB(連邦準備制度理事会)の量的緩和も効果がなかったと断じ、根本的な問題はグローバル化と新興国の追い上げによる国際競争力の低下だとしている。

 金融危機はバブルで「嵩上げ」されていた需要をもとに戻しただけで、それを昔のように増やすことは不可能だ。目先の景気に一喜一憂するより、国際競争力を強化し、イノベーションを高めることが大事だ。そのためにヨーロッパで必要なのは、税の捕捉率を高め、弁護士や会計士や薬剤師などへの参入を自由化し、「雇用保護」を削減することだ。

 アメリカの弱点は教育だ。特に初等中等教育が貧弱なために、単純労働者は新興国との競争に勝てない。高価な高等教育に力を入れるより、時代遅れのスキルしかない労働者を再訓練する教育システムの改革が必要だ。重要なのは、役に立たない「景気対策」より長期的に持続可能な潜在成長率を上げることだ――とラジャンはいう。

 これに対してクルーグマンは「構造改革派の議論には具体的なデータがない。失業率が高いのは単純労働者ではなく技術者や熟練労働者だ」と反論する。今の不況は金融危機のもたらした一時的な需要不足で、政府が財政政策でそれを埋めればいいと主張する。

 アメリカに関する限りクルーグマンの主張にも分があると思うが、これは数百万人が住宅債務で破産状態になっている特殊事情への応急処置という性格が強い。ラジャンの指摘は世界経済全体に対するもので、特に南欧諸国の「構造問題」に対する批判は、そのまま日本に当てはまるだろう。特に彼の批判している労働市場の硬直性は、日本のほうがひどい。

 ラジャンとクルーグマンが一致しているのは、現在の世界的な不況は実体経済の落ち込みであって「デフレ」ではなく、したがって金融政策に大した効果はないということだ。リーマンブラザーズの倒産直後には金融市場のパニックが混乱の原因だったが、それが4年も続くことは考えられない。特に金融危機のほとんどなかった日本では、長期的な構造問題の比重が高いと考えられる。

 ケインズの「長期的にはみんな死んでいる」というのは、100年ぐらいを考えれば正しいが、今の経済危機が100年も続くことはありえないので、長期的な改革は重要だ。政治家はインフレ目標やバラマキ公共事業のような短期的な対策を好むが、それが長期的にどういう結果をもたらすか、ラジャンの論文を読んで考えてほしい(日本語訳も出ている)。

プロフィール

池田信夫

経済学者。1953年、京都府生まれ。東京大学経済学部を卒業後、NHK入社。93年に退職後、国際大学GLOCOM教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現在は株式会社アゴラ研究所所長。学術博士(慶應義塾大学)。著書に『アベノミクスの幻想』、『「空気」の構造』、共著に『なぜ世界は不況に陥ったのか』など。池田信夫blogのほか、言論サイトアゴラを主宰。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

アングル:米テキサス州はしかで死者、ワクチン懐疑派

ワールド

アングル:中国、消費拡大には構造改革が必須 全人代

ワールド

再送米ウクライナ首脳会談決裂、激しい口論 鉱物協定

ワールド

〔情報BOX〕米ウクライナ首脳衝突、欧州首脳らの反
MAGAZINE
特集:破壊王マスク
特集:破壊王マスク
2025年3月 4日号(2/26発売)

「政府効率化省」トップとして米政府機関に大ナタ。イーロン・マスクは救世主か、破壊神か

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    テスラ離れが急加速...世界中のオーナーが「見限る」ワケ
  • 2
    イーロン・マスクへの反発から、DOGEで働く匿名の天才技術者たちの身元を暴露する「Doxxing」が始まった
  • 3
    イーロン・マスクのDOGEからグーグルやアマゾン出身のテック人材が流出、連名で抗議の辞職
  • 4
    「絶対に太る!」7つの食事習慣、 なぜダイエットに…
  • 5
    米ロ連携の「ゼレンスキーおろし」をウクライナ議会…
  • 6
    ボブ・ディランは不潔で嫌な奴、シャラメの演技は笑…
  • 7
    細胞を若返らせるカギが発見される...日本の研究チー…
  • 8
    日本の大学「中国人急増」の、日本人が知らない深刻…
  • 9
    【クイズ】アメリカで2番目に「人口が多い」都市はど…
  • 10
    「売れる車がない」日産は鴻海の傘下に? ホンダも今…
  • 1
    テスラ離れが急加速...世界中のオーナーが「見限る」ワケ
  • 2
    細胞を若返らせるカギが発見される...日本の研究チームが発表【最新研究】
  • 3
    障がいで歩けない子犬が、補助具で「初めて歩く」映像...嬉しそうな姿に感動する人が続出
  • 4
    富裕層を知り尽くした辞めゴールドマンが「避けたほ…
  • 5
    イーロン・マスクへの反発から、DOGEで働く匿名の天…
  • 6
    イーロン・マスクのDOGEからグーグルやアマゾン出身…
  • 7
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン…
  • 8
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 9
    「絶対に太る!」7つの食事習慣、 なぜダイエットに…
  • 10
    東京の男子高校生と地方の女子の間のとてつもない教…
  • 1
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    【一発アウト】税務署が「怪しい!」と思う通帳とは?
  • 4
    テスラ離れが急加速...世界中のオーナーが「見限る」…
  • 5
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 6
    「健康寿命」を延ばすのは「少食」と「皮下脂肪」だ…
  • 7
    1日大さじ1杯でOK!「細胞の老化」や「体重の増加」…
  • 8
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 9
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 10
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story