コラム

電子書籍で繰り返される「マーフィーの法則」

2010年08月05日(木)18時08分

 NTTドコモと大日本印刷(DNP)は8月4日、携帯端末向けの電子出版ビジネスで業務提携すると発表した。他方、DNPは凸版と共同で「電子出版制作・流通協議会」をつくり、電子書籍の標準化を進め、総務省・文部科学省・経済産業省は電子出版の「中間フォーマット」を標準化する懇談会を設置した。

 日本でもようやく電子出版の動きが本格化したのは結構なことだが、商品が出る前から「協議会」やら「懇談会」やらが乱立して、「標準化」の話ばかり行われるのは奇妙な風景である。日本の著作権法では、出版社にも印刷会社にも著作隣接権はないのだが、いったいどこの社がリスクを負って著者と交渉するのだろうか。

 アップルやアマゾンは懇談会もつくっていないし、標準化を呼びけかけてもいない。まして役所の助けを借りてもいない。アマゾンは、電子書籍の市場がほとんどない時期に「キンドル」を開発し、その採算性を疑問視する業界の声を無視して電子書籍の価格を紙の本の半分にし、赤字営業で販売を増やしてきた。その結果、アマゾンで売れた電子書籍の冊数は、ハードカバーの1.43倍になったという。

 電子書籍のように市場があるかどうかわからないときは、一つの企業が大きなリスクを負担してインフラからコンテンツまで「垂直統合」でやるしかない。ばらばらにやると、コンテンツが出てこないとインフラが売れず、インフラが売れないとコンテンツも出てこない・・・という悪循環に入ってしまうからだ。

「閉鎖的だ」と批判の多いアップルのやり方も、そういう批判を受けるリスクまで含めてアップルが責任をもってやっているということだ。日本のようにいろいろな会社の協議会でやると、どこの技術でやるか、ライセンス料はどうするかなどで話し合いがつかず、商品が出るまで何年もかかる。みんなの合意できる規格でやると、当たりさわりのない平凡なデザインになることが多い。

 電子書籍の官民懇談会では、シャープのXMDFという規格を中間フォーマットにして国内標準をつくろうということになっているが、何のために標準化するのかわからない。電子ファイルの規格としてはPDF、電子書籍の規格としてはEPUBという方式が事実上の国際標準になっており、それとは別の規格をつくっても世界市場では通用しない。印刷業界の本当のねらいは、独自フォーマットで囲い込んでアップルやアマゾンの日本進出を阻止したいということだろう。

 私は3年前に、IT業界の「マーフィーの法則」を提唱した。それは次のようなプロジェクトは必ず失敗するという経験則だ。

  1.最先端の技術を使い、これまで不可能だった新しい機能を実現する
  2.NTTや日立など、多くの大企業が参入し、大規模な実証実験が行なわれる
  3.数百の企業の参加するコンソーシャムによって標準化が進められる
  4.政府が「研究会」や「推進協議会」をつくり、補助金を出す
  5.日経新聞が特集を組み、野村総研が「2010年には市場が**兆円になる」と予測する

 電子書籍には、上の特徴がほとんど当てはまる。しいて違いをいえば、最先端の技術を使っていないことぐらいだろう。「こんなに多くの大企業も役所も一致しているのだから、成功するだろう」というのは逆で、むしろ多くの企業が参加すればするほど合意は困難になり、意思決定は遅くなり、失敗する確率は高くなる。最近では、多くの企業が参加した「電子マネー」がその一例だ。

 電子出版というのは、甘いビジネスではない。コンテンツの価格がゼロに近づくインターネットの世界では、徹底したローコスト・オペレーションでないと採算は取れない。電子化の物理的コストはゼロに近いので、ほとんどは人件費である。年収1000万円の高給サラリーマンが1点ずつ電子化交渉をやっていては、とても黒字は出ない。

 必要なのは協議会でも標準化でもなく、まったく新しい発想でリスクを取る中核企業である。電子マネーがこけたあと、ソニーの「フェリカ」が成功したように、おそらく本当の電子書籍が出てくるのは、電子書籍ブームが終わったあとだろう。

プロフィール

池田信夫

経済学者。1953年、京都府生まれ。東京大学経済学部を卒業後、NHK入社。93年に退職後、国際大学GLOCOM教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現在は株式会社アゴラ研究所所長。学術博士(慶應義塾大学)。著書に『アベノミクスの幻想』、『「空気」の構造』、共著に『なぜ世界は不況に陥ったのか』など。池田信夫blogのほか、言論サイトアゴラを主宰。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

トランプ氏とゼレンスキー氏が「非常に生産的な」協議

ワールド

ローマ教皇の葬儀、20万人が最後の別れ トランプ氏

ビジネス

豊田織機が非上場化を検討、トヨタやグループ企業が出

ビジネス

日産、武漢工場の生産25年度中にも終了 中国事業の
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口の中」を公開した女性、命を救ったものとは?
  • 3
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが「竹建築」の可能性に挑む理由
  • 4
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 5
    ロシア武器庫が爆発、巨大な火の玉が吹き上がる...ロ…
  • 6
    足の爪に発見した「異変」、実は「癌」だった...怪我…
  • 7
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 8
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 9
    日本では起こりえなかった「交渉の決裂」...言葉に宿…
  • 10
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 3
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 4
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?.…
  • 5
    女性職員を毎日「ランチに誘う」...90歳の男性ボラン…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    自宅の天井から「謎の物体」が...「これは何?」と投…
  • 8
    トランプ政権はナチスと類似?――「独裁者はまず大学…
  • 9
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 10
    【クイズ】世界で最もヒットした「日本のアニメ映画…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 6
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 7
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story