コラム

大陸と香港、深い隔たり

2014年05月09日(金)05時10分

 だが、実のところ香港の衛生観念もわずか20年前までは緩かった。洗面所の使い方もそれほど綺麗とは言えず、腰を浮かせて用を足す、という手段をわたしが身につけたのも香港時代だった。だが、2003年に大陸から持ち込まれたSARSがあっという間に大感染を引き起こし、死者が出て、感染源となったマンションやホテルが封鎖されたり、病院でも次々と看護関係者が感染して倒れるという事態となり、WHOによって渡航禁止地区に指定された。お陰で貿易や観光を柱としていた香港経済は壊滅的な影響を受け、それ以来香港人は人が変わったように潔癖と思えるほど清潔さに気を使うようになった。

 一方、中国では子供に対して昔も今も割と寛容だ。都市化が進められているとはいえ、農村と密着した場所も多く、地方都市になると親もかなり自由だ。都市においても中国ではまだまだ衛生観念の向上を図らなければならないと思うことも多く、また社会ルールというものを気にする習慣があまりないし、公共の場における身の振り方についての意識がかなり緩い。北京などの繁華街ではさすがに大通りのど真ん中では余り見かけないものの、ちょっと裏通りに入れば子供に道端でおしっこをさせている姿をよく見かける。「結局は子供だからね」という緩いお目こぼしがある社会なのだ。

 こういった意識の違いもあるだろう。だが、件の事件を写真で見た限り、子供の両親は周囲の目に気を配っていた。実際に現場で撮られたビデオでは母親は「トイレに行ったけれど、長蛇の列で仕方なかった」と繰り返しているそうだし、写真ではティッシュに見えたそれは実は紙おむつで、彼女は言い訳しながらもそのおむつを丸めてゴミ箱に捨てようとしていたという。

 確かに香港の青年側も大人げがなかった。積もり積もった、大陸からの観光客の「蛮行」の連続に怒りをたぎらせている香港人は多い。それが習慣化して大陸人と見るとわざとトラブルを起こす香港人も増えているという。彼らもそんな一人で、実際にアンチ中国旅行者の活動に関わっていることが後でわかっている。だが、今や、中国vs.香港は感情的なしこりになってしまっており、お互いの心に余裕がなくなっている。

 しかし、今回の大騒ぎにため息をついている人たちも少なくない。「我々が香港に行かなければ、香港経済はすぐに縮小してしまうだろう」という鼻息荒い発言に、「貧しい大陸や災害に同情して我々が民間募金で援助してきたのは何だったのか」という香港の声。一方で、「日頃から北京や上海でも田舎の観光客の素養の無さを指摘しているくせに、なぜ香港人が叱責すると怒りを爆発させるのだ?」という大陸人同士の声。「もともと大陸には批判的なぼくですら、フェイスブック上で大陸人を罵る香港人には反吐が出る。彼らの態度はぼくのように日頃から香港に好感を持っている人間ですら不快にさせてしまう」......。

 わたし個人は、香港人側の反応も直情的過ぎると感じている。彼らは昔から弱者を――例えば他人の広東語の訛りを真似て大声で笑うと言ったような――あざ笑うという悪い習慣があった。だが、大陸の「オレたちがいなければ香港経済は潰れていた」という態度も、それを言う本人がどれだけの貢献をしてきたというのか。そんな物言いをすれば「虎の威を借る非文明的な狐」と言われても仕方がないのである。

 確かに香港経済の多くの部分が中国の経済発展に大きく依存していることは間違いがないが、一方で大陸からは毎年数万人の大学及び大学院生が香港にやってきて、香港で有利な就職のチャンスを狙っている。さらに出生地主義を採る香港で子供を産んで、香港人としての権利と自由を手に入れたいと求める親たちが引きも切らず、香港人妊婦のベッド確保に大きく影響し、昨年やっと中国人妊婦の病院での受け入れ規制が始まったばかりだ。つまり、中国に経済力はあっても法的に整備された香港で生活するための権利を手に入れたいというのも大陸人の本音なのだから。

 香港と大陸、その双方に明らかに欠落しているものがある一方で、お互いに頼りにしている部分もある。地続きだけに切っても切れない関係にあるこの二つの地域の、感情的な小競り合いはまだ解決の緒は見えず、ちょっとした何かが起これば再び悪化する傾向にある。このままではお互いにとって良い方向に向かわないと思えるのだが、どちらかにこの状況を打開する策はあるのか。お互いにあさっての方向を向いて怒鳴っているような、なんともやりきれないぶつかり合いが続いている。

プロフィール

ふるまい よしこ

フリーランスライター。北九州大学(現北九州市立大学)外国語学部中国学科卒。1987年から香港中文大学で広東語を学んだ後、雑誌編集者を経てライターに。現在は北京を中心に、主に文化、芸術、庶民生活、日常のニュース、インターネット事情などから、日本メディアが伝えない中国社会事情をリポート、解説している。著書に『香港玉手箱』(石風社)、『中国新声代』(集広舎)。
個人サイト:http://wanzee.seesaa.net
ツイッター:@furumai_yoshiko

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

米プリンストン大への政府助成金停止、反ユダヤ主義調

ワールド

イスラエルがガザ軍事作戦を大幅に拡大、広範囲制圧へ

ワールド

中国軍、東シナ海で実弾射撃訓練 台湾周辺の演習エス

ワールド

今年のドイツ成長率予想0.2%に下方修正、回復は緩
MAGAZINE
特集:引きこもるアメリカ
特集:引きこもるアメリカ
2025年4月 8日号(4/ 1発売)

トランプ外交で見捨てられ、ロシアの攻撃リスクにさらされるヨーロッパは日本にとって他人事なのか?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大はしゃぎ」する人に共通する点とは?
  • 2
    8日の予定が286日間に...「長すぎた宇宙旅行」から2人無事帰還
  • 3
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 4
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
  • 5
    磯遊びでは「注意が必要」...6歳の少年が「思わぬ生…
  • 6
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「…
  • 7
    イラン領空近くで飛行を繰り返す米爆撃機...迫り来る…
  • 8
    【クイズ】アメリカの若者が「人生に求めるもの」ラ…
  • 9
    「隠れたブラックホール」を見つける新手法、天文学…
  • 10
    あまりにも似てる...『インディ・ジョーンズ』の舞台…
  • 1
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 2
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「最大の戦果」...巡航ミサイル96発を破壊
  • 3
    800年前のペルーのミイラに刻まれた精緻すぎるタトゥーが解明される...「現代技術では不可能」
  • 4
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 5
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 6
    ガムから有害物質が体内に取り込まれている...研究者…
  • 7
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 8
    一体なぜ、子供の遺骨に「肉を削がれた痕」が?...中…
  • 9
    「この巨大な線は何の影?」飛行機の窓から撮影され…
  • 10
    現地人は下層労働者、給料も7分の1以下...友好国ニジ…
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    「テスラ時代」の崩壊...欧州でシェア壊滅、アジアでも販売不振の納得理由
  • 3
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛ばす」理由とは?
  • 4
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山…
  • 5
    テスラ失墜...再販価値暴落、下取り拒否...もはやス…
  • 6
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 7
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 8
    テスラ販売急減の衝撃...国別に見た「最も苦戦してい…
  • 9
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story