コラム

「その日」は超えられるのか? ―香港返還15周年

2012年06月30日(土)17時53分

 香港に来ている。着いた途端、空港で落ち合った友人から「台風が来てるよ。直撃するかも」と言われた。

 中国大陸の突端、ちょうどフィリピンと向かい合う位置にある香港は年間数回、激しい台風に襲撃される。面積が狭いためか直接上陸はあまりないが、ルートがそれて広東省に直接上陸した場合でもかなり激しい暴風に見舞われることが多い。

 だが、そんな香港には優れた台風警報システムがあり、気象台の役目も兼任している香港天文台がその観測に基づいて警報を出し、街はその警報(最初の頃、気球を使って市民にそれを知らせていたので「風球」と呼ばれる)に基づいて行動する。

 まず、台風が香港から800キロ以内に入り、今後香港への影響が予想される場合、「1号風球」が発令される。この時点での市民の反応は「ふうん、台風が近くに来てんのね」というレベルだ。それが、近海で強風が吹くようになり、風速毎時約41kmから62kmになると「3号強風風球」が出る。この時点で幼稚園が休園になり、市民は「お、台風だよ」とニュースに聞き耳を立てるようになる。3号は「12時間以内に暴風域に入るおそれあり」という意味も兼ねているので、一部夜学や公開講座などが事前に休講宣言する。

 そしてそのまま台風が進路を変えずに香港に近づいて風速がさらに高まると、「8号暴風(または烈風)風球」が発令される。これは同時に、海上、陸上における営業活動も含めた多くの活動の中止、企業や学校には「市民の安全な場所への退避手配」の合図で、つまり緊急事態に備える必要がある場合を除き市民の帰宅を優先させなければならなくなる。 学校は休講、会社は半ドンとなり、人々は帰路につく。また香港の主要交通手段の一つであるフェリーの運行が発令後30分ほどで止まり、一部地上を走る地下鉄もその運行回数を減らした特別運転体制に入る。もちろん、銀行も商店も多くがシャッターを下ろして休店状態となる。

 さらに台風が近づくと、続いて「9号烈風増強風球」、「10号台風風球」が発令され、自律的な外出規制や、窓ガラスの保護や看板、建築現場の足場の補強、自宅周囲の安全確保が呼びかけられる。

 これらはすべて市民の自制を促すものだが、もしこれに反する、あるいはこういった呼びかけをわざと無視した行為によって他者に損害をもたらした場合は法的な懲罰も適用される。自律と法的規制がうまく組み合わさった社会規範だ。日本でも特に台風に見舞われることの多い九州で育ったわたしにとって、「目からウロコ」の「習慣」だった(だがもちろん、「経済活動を停滞させる」と、高シグナル発令後には常に議論が巻き起こる)。

 それにしても、今回の台風は間合いが悪い。7月1日はイギリスから中国へ香港の主権が返還されてから15年目にあたる。また、4代目の行政長官の就任式も行われる。6月29日には北京から胡錦濤国家主席を迎え、香港では一連の記念行事が予定されているというのに。29日朝には「胡主席の香港入りを待って3号が発令される予定」などというジョークもネットで流れた。

 わたしは、7月1日に香港が大暴風域に入り、雨と風でぐっちゃになりながら、胡主席と新旧行政長官、政府の高官たちがゆっくりと国家に合わせて挙がる五星紅旗と香港特区の紫荊旗を見つめる姿を想像した。...なんと情けない15年目のシーンだろう!

 友人は笑った、「いや、雨なら当然、式典は室内でやるんだよ」。...お、そういえばそうだった。15年前の返還当日も、やっぱり前日から大雨で、チャールズ英皇太子と、当時の江沢民国家主席を迎えての引き渡し式典も室内で行われたのだ。あの日も市民と「世紀の大式典」と呼ばれたその日を――自由主義国から社会主義国への主権「返還」という大ドラマを――見守る人たちの心の中を交錯する思いを代弁するような空模様に人々はますます複雑な気持ちになっていた。

 それに加えて今年は台風だ。やっぱり香港では多くの人たちが心情と天気をシンクロさせて語っていた(蛇足だが、これが中国国内の某地で行われる式典だったら、中国お得意の「最新天文技術」とやらで晴天を演出したことだろう)。

 このレポートでも今年に入ってからすでに何回か香港の中国に対する市民感情について触れてきた。広い中国の中でなぜこれほ香港が重要なんだ?、と疑問に感ずる方もおられるだろうが、今年はそれだけ中国と香港の間における問題が次々と噴出した。その分胡錦濤主席をはじめ、中央政府の関係者も「母国に返還された香港の成功」を世界と国内にアピールするために、この15年目の節目を華々しく迎えたいという思いが強いはずだ。

 だが実際にはこの日を目前に15周年のことを話題にしても、人々の口からは湖南省の民主活動家、李旺陽氏の不審死新行政長官に就任する梁振英氏への不信感が飛び出してくる。さらに最近になって梁振英氏の自宅の違法改築問題(行政長官選挙直前に、最有力候補とみなされていた唐英年氏が全く同じ問題で騒がれ、落選している)が暴露されて連日新聞を賑わしているし、29日には李旺陽氏の死因再調査を求めようと湖南省入りした香港人学生が消息を絶ったことが大きく報道され始めた。

 そして、1日に胡主席を迎えて式典が行われる会場付近は厳戒態勢に入り、これまで市民が見たことのないような、高さ2mもある臨時バリケードが配備され、「中央から来た国家主席」と市民の間に置かれた「壁」の厚さが議論の的担っている。あまりの距離感に、かつてイギリス植民地時代に香港を訪れたエリザベス女王からわずか数m離れたところで市民がその姿を見守る様子と、夜半に準備されせい然と並ぶこの高さ2mの「壁」の写真を並べて「中英之別」と皮肉る書き込みがインターネット上でもてはやされている。

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後方位見えるのが式典会場である香港コンベンションセンター、そしてその前の設置された「壁」。プラスチック製だが中には水が注ぎ込まれ、成人男性が押しても引いてもビクともしない (c)Furumai Yoshiko

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合わせて準備された、香港市民にとって見慣れた伝統的な「鉄馬」と呼ばれる秩序整理用の柵。これに対して「壁」は「水馬」と呼ばれている (c)Furumai Yoshiko

 わたしは15年前もここでこの日を迎えた。街は人でいっぱいだった。「祖国へ戻る」と人々が口にするたびにわたしも複雑な思いにかられたものだ。もちろんかいれて外国人の勝手な思いだと知っていた。だが、今回、わざわざ北京からこの日のためにこの地に戻ってきたわたしより香港の人たちが困惑している、「我々が戻ったのは一体どこなのか」と。

 7月1日を直前にひかえた今日、ふと思い出した言葉があった。


「母さん、僕がまだ会ったことのない妹は僕らを受け入れてくれるだろうか
僕らの間に将来何かが起こったらどうすればいいのだろう
...

最初の数年の熱狂的な気持ちが過ぎて何か衝突が起こった時、
僕らはまだ愛しあえるだろうか
もし僕らがたもとを分かった時、母さん、あなたは誰について来る?
...

母さん、妹が帰ってくる日、
それはあなたの伝統的な家庭観念を乗り越える日だ
長年来、あなたは心を閉ざしてきた
あなたのあの堂々とした家長としての尊厳のために、
僕はずっとあなたの問題を解決しようと助け舟を出そうとしてきた
だが、あなたは僕にほとんどチャンスをくれなかった

僕はあなたの公平感を疑い始めている
僕の努力をあなたは見ようとしない
僕はあなたのために努力をしているのに
...

もし憎しみが効果を発揮するようになるならば
僕は傷ついた心で過去を思い起こすことだろう
そうして沈黙してその日をやり過ごすだろう

軽く簡単にその日を乗り越えるか
それとも悲しみに肩を落としてその日をやり過ごすか...」

 中国のロックミュージシャン、崔健が1997年の香港返還を前に作った「超越那一天」(その日を超えて)という歌だ。当時唯一の、主権返還をテーマにそこに暮らす人々の思いを歌った曲である。「母さん」は中国政府、「僕」は「中国国内の庶民」、そして「妹」は「香港」だった。

「その日」から15年。この「僕」は香港市民にも重なるようになった。だが「母さん」は相変わらず、家長の尊厳を重んじ、「壁」の向こうに隠れてしまった。香港市民がこの日に傷つけられれば、この「家」はどうなって行くのだろうか。

プロフィール

ふるまい よしこ

フリーランスライター。北九州大学(現北九州市立大学)外国語学部中国学科卒。1987年から香港中文大学で広東語を学んだ後、雑誌編集者を経てライターに。現在は北京を中心に、主に文化、芸術、庶民生活、日常のニュース、インターネット事情などから、日本メディアが伝えない中国社会事情をリポート、解説している。著書に『香港玉手箱』(石風社)、『中国新声代』(集広舎)。
個人サイト:http://wanzee.seesaa.net
ツイッター:@furumai_yoshiko

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