コラム
ふるまい よしこ中国 風見鶏便り
「日本よ、がんばれ!」@香港
香港で入った書店で、「日本・再出発」というタイトルの本が目に入った。カバーに使われている写真はあの「希望の松」だ。小さな「頑張ろう!日本!」と日本語で書かれた赤いステッカーが貼り付けられていた。手に取ると、副題に「日本で暮らす香港人22人の地震後の想い」とある...ぱらぱらと開いて、ふと思った。ほかの国でもこんな本が出ているのだろうか? 我々は日本で震災後海外における「風評」ばかりを気にしてきたが、こんなふうに日本で暮らす人々が自分の震災経験を自国の人に伝えようとしていることに我々は気づいているだろうか?
「日本人はどうしてこんなに前向きになれるんだろうと、なんども考えた。災難に慣れているから? 周囲のことなんて気にしてないから? どちらかというと、わたしはこう感じている。ここが彼らの家だから、ここを離れるなんて考える必要のない問題だから。SARSの(感染地域に指定された)期間中、わたしも香港を離れようとは思わなかったのと同じように」(Helen Shum)
「わたしの家は2階建ての木造住宅だったが、これまでずっと木造住宅はコンクリートのビルより柔軟性が高いとは聞いていた。実際に家に帰ってみると何も落ちておらず、逆にコンクリートビルの2階に住む友人宅では棚の上においていた物がすべて床に散乱していたという。だから、日本の住宅のほとんどが木造なのね」(Prema Cheung)
執筆に参加した人たちのバックグラウンドは様々だ。日本に憧れて留学中の人、ワーキングホリデーのプログラムを利用して日本の企業で研修中の人、香港での仕事を辞めて日本に留学した人、日本人と結婚して家庭を築いている人、香港から西洋諸国で暮らした後日本での生活を選んだ人、日本での生活が嫌いで嫌いでたまらなかった人......東京で暮らしている彼らが目にした3・11当日の様子は日本人の体験とそれほど違いはない。だが、その中で彼らは自分の目から見たさまざまな日本の一面を語る。
「一番印象深かったのが、日本人の生命を尊重する態度だ。被災地現場を片付けに入った人たちが片付けを始める前にがれきの中から被災者の写真やカバン、賞状、人形...などの物を取り出し、丁寧に拾っては処理をするのをテレビで見た。彼らは残されたその一つ一つが、たとえその持ち主がすでに世を去っているとしても、最も重要な物品だと考えていたのだ」(鄧蔚蓉)
成田空港で働いている人はその日の大混乱に陥ったその場所で、その瞬間を日本人と一緒に仕事をしながら過ごした。
「もしこんなことが自分の国で起こったとしたら、いや地震どころかほんの小さな台風が香港を襲えば、たぶんそれに乗じて1日休みにしちゃう人は少なくないはずだ。住んでいるところが洪水だ、交通機関がマヒしてるから、とか言ってね。あれほど職務に忠実で手を抜かず、大局を重んじる日本人の仕事に対する態度に、またもぼくは地面にひれ伏したくなるほど感心した...多くの航空会社の便に遅延が出た影響であの日の空港は24時間体制になり、ぼくらも遅れた便を処理することに協力した。本当だったら夜の8時には仕事を終えるはずの同僚も残って黙々と午前2時の最後の便を見届け、恨みがましい言葉を洩らす者はいなかった」(Darwin Cheng)
そして、当時日本を離れるという決断をした人たちも少なくなかった。しかし、彼らがその決定に至るまでどんな思いだったのか、を伝えた日本のメディアはそれほど多くなかったはずだ。
「地震から数日後、情報を公開して伝え合うことができるネットが知らず知らずのうちに、引き続き日本に残っているわたしにとって大きな心の負担になった。もともとは情報をたびたび更新すれば皆にわたしや友人たちの無事を伝えることができると思っていたのが、返ってくるコメントが気遣いから叱責に変わり、逆にわたし自身を不機嫌にした。『帰ってくるかどうかはあなた一人の決定じゃない。家族や友人が心配しているのに申し訳ないと思わないの?』『残って手助けになるならいいけれど、今のあなたは他人の救済物資を消耗しているのよ。あなたの身になにか起こったら(日本人は)あなたのような外国人を助ける手立てまで考えなくちゃいけなくなる。日本を離れるという選択肢があるのに、なぜそうしないの? 香港政府の特別機は月曜日が最後。これを逃したらもうチャンスはないわよ』」(Helen Shum)
「わたしたちは誰も『香港に逃げ帰る』なんて考えていなかった。遊びに来たんじゃないんだし、日本で飲み食いして遊び終わって、何かが起こったからと撤退するなんてイヤだった。皆、仕事を持っていて責任もある。一度の地震ですべてをほったらかしにして、仕事をほっぽり投げて自分勝手に香港に逃げ帰るなんて絶対にできないと思っていた。会食の最中に友人に家族から電話が入った。長い長い話が終わると、彼女は眼を真っ赤にしてボロボロ泣きながら、家族が出来るだけ早く帰ってこいと強制するの、と言った。その瞬間、ほかの人たちも重苦しい気分になり、家族に帰国を促されている友人たちは落ち込んだ」(鄭詠恩)
もちろん、その中で逡巡を繰り返し、日本にとどまった人たちもいた。
「東京を離れた人の中には、東京に残っている人をあざ笑う人もいた。また東京に残っている人の中には、東京を離れた人を臆病だと呼ぶ人もいた。そんな様子にがっかりしたが、どうしてそうなるのだろうとその気持ちを理解しようとしてみた。彼らは恐怖に頭がやられちまったのか? それとも自分の決定が絶対に正しいと証明したいだけなのか? あるいは見捨てられたという思いから報復しようとしてる? さらに別の理由があるんだろうか? そしていろんな可能性によってさまざまな答があるんだ、と気づいた時点で、それを気にしないことに決めた」(Kachun Anders Chan)
「ぼくには9・11事件の時にアメリカの大学留学をあきらめて帰国するしかなかった、日本人の友人がいる。彼が当時暮らしていた地域は直接の影響は受けなかったが、日本の家族の気持ちを考えて自分の夢をあきらめるという選択を取ったのだ。10年後の今、彼はそれを少し後悔していて、時々、当時アメリカに残っていたら今の人生はどんなものになっていただろう? と言う。もちろん彼は悲観しているわけではなく、逆に今後歩むべき道を前向きに歩んでいる。でも、この日本人の友人を前にぼくには選択の余地はなかった。というか、ぼくにとって答はとても明らかだった。彼は言った、自分の信念と夢を持ち続けなきゃ、と」(欧陽業鴻)
「二つだけ『不幸中の幸い』と言えることがあった。一つは主観的なもの、そしてもう一つは客観的なもの。まずは香港にいる母がここでぼくに帰ってこいと言わなかったこと。彼女は、『あの連中』は事実を誇張して何か下心があって天下を混乱させたいのよ、と言った...(中略)...彼女は電子メールでぼくに、まず自分を落ち着かせてから助けを求めている人を助けに行きなさい、と言ってきた。なぜ彼女がそこまで日本に信頼を置いているのか、ぼくの方が知りたいくらいだが、この言葉はぼくにとって一生の宝物になり、さらに東北の被災地にボランティアに行こうと決心させた...」(Fred Hui)
香港でも原発のニュースは大きく報道され、デマに浮かされて塩の買い占めに走った人も少なくなかった。日本から香港に戻った彼らは自分が見聞きしたそれとは全く違う、メディアの誇大報道を苦々しく感じて過ごしたことを書き綴る。その間、香港で日本のためのチャリティ活動を組織した人もいる。
「香港の2週間で最もたびたび会っていたのは日本で働くワーキングホリデーの友人たちだった。皆、(香港では)出勤する必要がないから暇だったのと、気持ちが落ち込んでいたからお互いに声を掛け合っていたからだ。そこで一緒に2日間のチャリティ活動をしようという計画が持ち上がった。わたしが絵葉書をデザインしてそれをチャリティー販売することになり、中華YMCAが場所と支援を提供してくれたのも有難かった。2日間で2万香港ドルが集まった。金額はたいしたことがないけれど、皆が日本のためにとにかく力を出した結果だ。さらに政治団体が開いたチャリティーキャンドル集会にも参加し、地震時の経験を語った。香港での2週間は本当に日本に帰りたくて仕方がなかった」(Prema Cheung)
そうして彼らはみな日本に帰ってきた。
「東京に戻って3・11直後とは違うと一番感じたのは、街の笑顔だった。東京は冷たい街だという批判を何度も耳にしたことがあったけれど、今わたしが感じているのは皆が一生懸命生きていて、この街のすべての正常を取り戻そうと努力し、笑顔ですべての変化に立ち向かおうという態度だ」(Helen Shum)
「あの大地震が、世界を沈黙させ、わたしの心を静止させた。そして、自分の日本での生活を振り返らせ、わたしに新たな日本を思い知らせることになった」(鄧蔚蓉)
このほか日本で地質学を研究する元メディア関係者も、日本の地震事情とその対応を丁寧にまとめている。また企業や政府の対応に対する感想や、日本で子供を育てる親としての思い、心積もりをまとめている人もいる。
「ぼくは社会学者や民族学者ではないが、日本に暮らし始めてからの体験や観察で、少しずつ分かってきた。日本人が事物に対して最も重視しているのはその事物そのものだけではなく、事物が出来上がる過程と態度なのだ、と。これこそが彼らが謂うところの『道』なんだと思う」(閑人)
一人の香港人女性の呼びかけによって出来上がったこの本には、知日派として知られる香港の作家や日本の在香港領事が序文やあとがきを寄せており、そして日本が大好きだという香港在住の精神科医も災害における被災者の心の問題について触れており、日本で暮らす香港人たちの「震災後の本当の日本を知ってもらいたい」という思いが詰まっている。
昨年9月に出版されたこの本はすでに二版を数えている。わたしはこれまで「第二の故郷」とみなしている香港で、ほとんど「日本好き」の香港人と積極的に接触してきたことはなかった。しかし、今ここで日本人の一人としてこの本を読んで、自分たちの力で自分たちの仲間に日本の姿を伝えようとした執筆者と協力者たちに、心から「ありがとう」と伝えたいと思った。
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