コラム

強制返還はドラマの幕開け?

2011年08月10日(水)07時00分

 今年の7月は中国にとって騒がしい一カ月だった。7月1日の中国共産党建党90周年記念祝賀はすでに予想されていたものだったからまだいいとして、その晴れがましい場に姿を見せなかった江沢民元国家主席の死亡説が第二週に流れ、世界中で大騒ぎになった。そして月末の22日には12年間にも渡る攻防戦の末、巨額の密輸容疑で指名手配されていた頼昌星が、政治難民申請をしていたカナダから強制返還されて帰国した。翌23日に起こった高速鉄道の大事故ですっかりかき消されてしまったが、本当ならその日から(政府の禁令が出るまでは、という条件付きだが)熱き頼昌星報道が始まるはずだったのだ。

 頼昌星は1958年福建省生まれ。94年に同省の貿易港アモイに設立した「遠華グループ」を利用して、99年に密告により事件が発覚するまでの5年間に総額530億元(約77億6千万米ドル)の物資を密輸し、合計300億元(約44億米ドル)を脱税していたとされる。中央当局はのべ3千人の係官をアモイに派遣、その後同地の税関、市政府、銀行など100人近い人たちが有罪判決を受けた。一方、頼と妻子はすでに取得していた香港のパスポートを手に中国と犯罪人引渡条約を結んでいないカナダに逃亡、そのまま観光ビザが切れた後も「帰国すれば政治的迫害に遭う」ことを理由に難民申請をしていた。

 政治難民申請の根拠は、中国における密輸・脱税事件に関する当局の捜査がまだ終わらず、頼の手元にはアモイ市政府を超えた、もっと上の当時の政治指導者層が事件に連座することを示す証拠があり、彼らに狙われているというものだった。現実に彼は当時の江沢民国家主席や朱鎔基総理の周囲、そして江沢民派とされる重鎮、賈慶林氏や曾慶紅氏らの秘書と親しかったとされる。つまり、頼がそのまま中国からの要請によって引き渡されれば、中国を揺るがす大事件となることは必至で、そのためにカナダ政府には中国政府内から「頼を引き渡せ」と説得するグループと、「頼を絶対に帰すな」というグループが交互にやってきていたという裏話も流れている。

 一方で密輸や脱税で死刑という極刑に処される中国に対し、カナダの司法関係者にも不信感は高く、また中国国内に残っていた頼の長兄が連座した獄中で不審死、さらには次兄は酒の席で殴り殺された。そのために最初は「帰国すれば殺される」という頼の主張も支持された。しかし、その一方でカナダの自宅で賭博パーティを開いたり、裁判所の警告を無視して外出したりと頼もやりたい放題。その結果、2006年に一度は強制送還が決まったものの、空港で自ら柱に頭をぶつけて送還作業を中止させるなど、映画並みのパフォーマンスを披露した。

 そうやって難民申請の再審にも持ち込んだ彼が今年7月初めに突然拘束され、21日に正式に申請却下を申し渡されてすぐに飛行機に乗せられて帰国の途についたことに、多くの人たちが驚いた。

 ニューヨークタイムズ紙の報道によると、裁判官は頼がこのところ中国国内の政府関係者と帰国についての話し合いを続けていることを理由に、「強制返還で帰国しても彼が迫害を受けることはあり得ない」と語った。07年には中国の司法関係者が、頼を死刑を求刑しないことを記者会見で約束しており、今回カナダの司法関係者はそれをタテに「もし頼が獄中で死ぬことがあれば、中国側は国際的な信用を失うことになる」と判断したと、英紙「エコノミスト」は分析する。

 一方、中国では「頼昌星たちはもう逃げられない時代だ」(環球網)という大上段な見出しで今回の「引き渡し要求成功」を伝えている。「人民日報」紙の先日の報道によると、中国では現時点で4千人もの汚職官吏が海外に逃亡しており、その持ち逃げ額はなんと平均1億元(約1460万米ドル)にも達するという。今回の「成功」は彼らの多くを強制的に帰国させるための先例になるという論点を展開した。

 これらの政府系メディアは「アメリカやカナダには腐敗官吏村すら出来上がっている」とはやし立てているが、そのうち現地の国籍をすでに取得している場合も多く、カナダ国籍取得のための難民申請が却下された頼のケースをそのままあてはめることはできない。また「頼が帰国のための相談をしていた」というのは事実のようで、一緒に逃亡したものの05年に離婚した妻が娘を連れて09年に先に中国に帰国し、収監もされずに暮らしていることも、彼が故郷への思いを深めたと見られている。

 ここで人々の想像力を俄然刺激するのが、「政治的迫害はどうなったのか?」という疑問への答だ。頼の事件に関わったとされる、所謂「江沢民派閥」にとっては頼の帰国は望ましいものではないはずだ。しかし、「頼の口封じ策」と見られていた死刑あるいは終身刑求刑を放棄してまで現体制は彼の帰国を促した。そして、北京空港に着いて政府の係官に言われる通り書類にサインをした頼の姿には、かつて帰国を嫌がって空港の柱に自分の頭をぶつけた激しさは片鱗も見られなかった。

 頼は納得の上で帰国したのは間違いないようだ。もちろん、死刑求刑なしが確約されたのも一つの理由だろうが、彼より先に帰国した娘はともかく妻に対しても中国当局が司法手順を取らなかったのは、頼に「ほら見ろ、帰国しても安全だよ」と帰国を促すためだっただろう、そして当局が「見せしめとしての極刑」を放棄する以上に頼の帰国の何が必要だったのか――。

 中国国内の学者は「すでに頼昌星が引きずり出せる政治家は年老いており、彼の帰国が政界に引き起こす影響は大したことがない」と語る。しかし、釣れる大物がその引退後もずっと何らかの影響力を持ち続けている人であれば? そろそろ政治リーダーの交代劇も約1年後に迫ってきたことだし。 

プロフィール

ふるまい よしこ

フリーランスライター。北九州大学(現北九州市立大学)外国語学部中国学科卒。1987年から香港中文大学で広東語を学んだ後、雑誌編集者を経てライターに。現在は北京を中心に、主に文化、芸術、庶民生活、日常のニュース、インターネット事情などから、日本メディアが伝えない中国社会事情をリポート、解説している。著書に『香港玉手箱』(石風社)、『中国新声代』(集広舎)。
個人サイト:http://wanzee.seesaa.net
ツイッター:@furumai_yoshiko

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