コラム
ふるまい よしこ中国 風見鶏便り
香港から大陸へ
1989年6月4日、わたしは香港にいた。この日、遠い北京の天安門広場で政治の民主化を求めて座り込んでいた学生たちに声援を送ろうと香港でも市民デモが呼び掛けられていた。しかし、集合時刻に学校に着いたわたしは、いつもはいかめしい顔の香港人教務主任がその日未明の軍隊による天安門広場突入という最悪の事態に、目を真っ赤にして背中を丸めてデスクに座っているのを目にした。その日の午後1時には香港中の自動車がラジオの呼び掛けに応えて一斉にクラクションを1分間鳴らし続け、広場で亡くなった学生たちを追悼した。あの日の静けさと騒音は、いつもはばらばらな香港人が一丸となって中国政府にぶつけた激しい怒りだった。
2011年6月。かつて「借り物の地、借り物の時間」と形容された香港はこの22年の間に中国に返還され、「祖国の懐抱」に戻った。そして今や中国は北京オリンピックを成功させ、日本を抜いてGDP世界第2の経済大国となり、香港経済も明らかに中国への傾斜を加速させ、政府もいかに中国からの投資を引き込み、海外から中国に向かう旅行者に香港を経由させるかに日々腐心している。
6月の香港は月初めから熱気に包まれていた。コーズウェイベイ(銅鑼湾)にあるショッピングモール、タイムズスクエア前のテントでは天安門事件の再評価を求め、6月4日にちなんで64時間の絶食を敢行する大学生が寝泊まりしていた。繁華街に似つかわしくないその雰囲気に、香港人たちが「分かってるよ」とばかりに足早に立ち去る一方で、大きな買い物袋を提げた中国からの観光客が足を止める。「6月4日」という日付すら禁句とされる中国に暮らす彼らにとって、街中で堂々と「六四」(天安門事件を指す)と書いた立て看板を掲げてビラを配る大学生たちの姿は、また香港の新鮮な一場面に映ったに違いない。おそるおそるながらも差し出されたビラを手にする人も多かった。
中心街から離れたチャイワン(柴湾)の工業ビルの一室で開かれている展覧会もメディアで取り上げられ、多くの人たちの話題に上っていた。4月初めに中国当局に拘束された芸術家艾未未の釈放を求める香港人政治家、芸術家、作家、ジャーナリストらによるグループ作品展だ。四川地震で手抜き工事の校舎崩壊の犠牲になった学生たちの追跡調査を行い、現地政府の責任を追及しようとした艾や譚作人といった民間活動家の存在は若いアーティストたちの関心の的らしい。
集会前夜には人が行きかう歩行者天国でパフォーマンスも行われた。ここでもテーマは艾未未やノーベル賞作家の劉曉波の釈放要求で、インタラクティブなパフォーマンスに参加した観衆たちが残したメモにも「自由」や「民主」という文字がたくさん踊っていた。
毎年6月4日にビクトリア公園で開かれる天安門事件抗議集会はすでに風物詩となっている。集会の参加者数は主権返還から10年後の07年には5万人前後にまで落ち込んだが、20周年となった09年にはその3倍近い人々が集まった。昨年は警察発表でも過去最高の11万人を超えた(主催者統計は15万人)とされ、今年も15万人を上回る人が集まったと主催の「香港市民支援愛国民主運動聯合会」(支聯会)は言う。
街の表情が様変わりにしたように、20年後の抗議集会も大きく変わった。会場の公園に足を踏み入れると、民間ラジオ局のステッカーが手に押し込まれ、ビラが配られ、集会記念Tシャツを広げて売っている。さすがに食べ物屋はないものの、その熱気はまるで学園祭だ。その先のバスケットコートの床にチョークを使ってさまざまな言葉や絵が書き連ねられている。中には村上春樹がエルサレム賞の授賞式スピーチで触れた「わたしは卵の立場に立つ」という言葉をもじった書き込みもあった。それを年長の参加者がじっと追いながら読んでいる。かつて街が怒りに燃えた時と同じように、世代を超えた共感がそこにあった。
メイン会場に座り込んだ人々を見渡すと、約半分が30代以下と思しき人たちだった。彼らのほとんどが天安門で起こった事件を目にしていないはずで、さらには当時生まれていなかった高校生グループも参加していた。そんな人々の波の中を歩くと、あちこちから中国の標準語である普通話が聞こえてきた。03年から始まった個人の香港自由旅行を利用して、広い中国大陸で唯一開かれているこの集会に参加するためにこの時期を選んで香港を訪れる人も増えている。会場で集まった、支聯会の支援カンパには香港ドルの中に1万6千元の人民元紙幣が含まれていたという。
ちっぽけな香港で脈々と受け継がれる中国民主化への思い。その中国は今、一体どんな国なのか、風見鶏のようにこれから眺めていきたい。
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