第一の「河内と船場」への注目について。
近代以降の河内は、丁稚(でっち)や乳母、人力車夫などの労働者を大阪の都市部に供給してきた。船場にも多数の河内からの労働者がおり、「中心としての船場」と「周縁としての河内」は密接に結びついていたというのが実態である。
しかし、イメージ上の河内と船場は明確に分離している。
河内は、大阪のなかの周縁というイメージが付与され、前近代性や土着性を引き受けている。大阪の「ガラの悪さ」が言われるとき、たいていそのイメージの起源は河内にある。
これに対して船場は、商人の街としてのイメージを保持し続けている。船場の隆盛はすでに過去のものだが、そうであるがゆえに、商都のイメージや伝統のイメージが求められ、喜ばれているようだ。
また、船場と河内とでは「階級」も異なるのだが、イメージが先行することで、「階級の差」は、もっぱら「地域の差」として理解されるようにもなった。
第二の高度経済成長について。
大阪文化の歴史を語る際には、大正から昭和初期の阪神間モダニズムが強調されがちである。これに対して、「船場と河内」という関心の持ち方は、高度経済成長期へと私たちを誘う。
高度経済成長は大阪の実態とイメージを変えた。大阪万博に関連する公共事業は、60年代末に本格化したが、これによって道路や地下鉄が整備され、街の風景は変わった。たとえば、同時期に着工した船場センタービルは、船場の街の景観を一変させた。
「太閤以来の世直し」とも呼ばれたこれらの整備によって、かつて「地盤沈下」と表現された大阪経済は一時的に下げ止まったが、東京との経済格差は広がっていった。第2位の都市としての地位を盤石にしつつ、1位の背中は遠ざかったのである。
こうしたなかで、船場と河内の実態は大きく変化したが、それゆえに従来のイメージを純化した〈船場的なもの〉と〈河内的なもの〉がメディアのなかで再生産され、固定化されたと理解することができる。
第三のメディア文化について。
高度経済成長期に河内を扱ったメディア文化といえば、やはり今東光(こんとうこう、1898-1977年)を挙げなければならない。
映画化された『悪名』『河内カルメン』、これらのなかで強調された河内音頭も、河内のイメージ形成に寄与した。
船場については山崎豊子と花登筺の作品イメージの影響が大きい。映画化・ドラマ化によって、船場商人の「えげつなさ」や「土性骨」は、誰もが知るところとなった。もちろん、その前史として、ラジオ漫才やコメディドラマによる「大阪(上方)」の強調があったのも見落とすことはできない。