アステイオン

コロナ政策

政策の「司令塔不在」が招いたコロナ禍の混乱...経済学からの再考

2025年03月12日(水)11時00分
小幡 績(慶應義塾大学大学院教授)

雇用調整助成金の話を扱った、酒井正先生の論考も、控えめではあるが、4年間に行われた政策の多くの問題点を指摘している。植杉威一郎先生のゼロゼロ融資に関する論考も同じで、ゼロゼロ融資による長期的な悪影響を明確にかつ丁寧なデータ分析を背景に指摘している。

私のようにカッカしていては、まっとうな論壇の世界の仲間入りはできないのか。知らないうちに、大嫌いなネット論壇の人々、情緒的で無責任な人々と同じ穴の貉になってしまっているのか、と自己嫌悪に陥っていたところ、伊藤由希子先生の医療の論考を読んで、少し溜飲が下がった。

批判は痛烈に見えるが、なんら特別なことではない、普通のことが述べられているだけだ。あの4年間に起きたことが異常だったのであり、なぜあんなおかしなことが起きたのか、そちらがミステリーなのである。

なぜ、あんなに政策は迷走したのか?

犯人を挙げることは簡単である。医療分野の利害関係者であり、それを制御できないどころか媚を売りまくる政治家たちであり、政治的には難しい仕方がないと物わかりの良い振りをせざるを得ない、闘う余裕のない無駄な仕事に忙殺されている官僚たちである。

しかし、また、そもそも間違った風説を煽るメディアであり、ネットメディア、SNSに自ら加担しておきながら被害者面をしている人々である。さらに、だれひとり取り残さないという聞こえはいいが、いかなるリスクも取れない風潮。公平性にとらわれ過ぎてすべての人が同じだけ不幸になることを甘受する謎の道徳観。要は、全員が有罪だ。

では、どうすればよいのだろう。

個別事例の犯人ではなく、システムの根本的な欠陥を見つけなくてはならない。それは、私は、デザイナーの不在、司令塔の不在ということだと思う。

昨今、頻繁に耳にする「気になる」(つまり、違和感があって、不快な)言葉の一つに(いろいろあるが、ここの文脈では)、「上から目線」というものがある。偉そうなやつは嫌われる、というのは日本社会の最大の永遠の特徴であるが、事例には事欠かない。

歴史をたどっても、日本には独裁者が存在したことはない。織田信長は殺されたし、徳川はシステムとして支配したが、形式的には偉くないし、江戸と京都、将軍と天皇、武家と公家で、常にバランスをとってきた。

しかし、上から全体と歴史と将来を俯瞰して指示を出すことは、上からの目線でなければできない。にもかかわらず、今の日本では、草の根の目線以外は社会的に許容されない。それで、国家という組織がうまく運営できるはずがない。

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