固有の判断基準や慣習にかかわるローカルルールのようなものがあるのは音楽研究だけではなかろうが、そういうそれぞれの領域固有の微妙な凹凸のような要因を無視して、すべてを一律にブルドーザーで平らにしてしまった印象である。
今回取り上げたふたつの事例に共通しているのは、知の営みというものがそもそもどのように成り立っているのかという最も根本の部分がないがしろにされ、「著作者の権利」の部分だけが、現実離れした形で振り回され、形骸化する結果になっていることだ。
人文学に限らず、およそ知と呼ばれるようなものは、そのコミュニティに関わる人々がさまざまな知恵を提供し、それらがパブリックドメイン化しつつ共有財産として蓄積された土台を形作り、そこにさらに新たな知見がもたらされ、積み上げられてゆくというような形で成り立っている。
もちろん新たな知をもたらす者への敬意やそれにふさわしい見返りが必要であることは言うまでもないが、それらが皆で共有されることによってこそ、次なる新たな知の積み上げが可能になるということを考えるならば、それらが囲い込まれることなく、皆が共有財産として利用できる仕組みをどのように確保してゆくかを、それぞれの領域の状況をふまえてきめ細かく考えてゆくことこそが必要であろう。
「正論」はもちろん「正論」だが、それが実質を欠き形骸化したお題目になってしまうと、著作権法本来の目的にも反し、「角を矯めて牛を殺す」結果にもなる。ましてそれが懲戒解雇のような、ひとの一生を左右することに直結するとなれば、事は重大である。
最初に言及したドラマ《不適切にもほどがある!》では、「この作品には、不適切な台詞や喫煙シーンが含まれていますが、時代による言語表現や文化・風俗の変遷を描く本ドラマの特性に鑑み、1986年当時の表現をあえて使用して放送します」といったテロップが随所で出る。
ところが最終回の末尾には、今度は2054年から逆に現代に戻ってきた人物が登場し、そこでは「この作品は不適切な台詞が多く含まれますが、時代による言語表現や文化・風俗の変遷を描く本ドラマの特性に鑑み、2024年当時の表現をあえて使用して放送しました」というテロップが出てきて、現代の価値観自体が相対化される。
コンプライアンスにがんじがらめになったこの時代の動画や判決文は、30年後の人々の眼にはどのようにうつるのだろうか。
渡辺 裕(Hiroshi Watanabe)
1953年生まれ。東京大学文学部卒業、同大学大学院修了。玉川大学文学部助教授、大阪大学文学部助教授、東京大学大学院人文社会系研究科教授、東京音楽大学教授などを歴任。専門は音楽社会史、聴覚文化論。著書に『聴衆の誕生』(春秋社、サントリー学芸賞)、『日本文化 モダン・ラプソディ』(春秋社、芸術選奨文部科学大臣新人賞)、『歌う国民──唱歌、校歌、うたごえ』(中公新書、芸術選奨文部科学大臣賞)、『校歌斉唱!──日本人が育んだ学校文化の謎』(新潮選書)など。
『アステイオン』101号
公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会[編]
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