アステイオン

座談会

「日本人は100年後まで通用するものを作ってきた」...「失われた何十年」言説の不安がもたらした文化への影響とは?

2024年10月09日(水)10時45分
片山杜秀 + 三浦雅士 + 田所昌幸(構成:置塩 文)

三浦 一番大きい問題はメディアの変化ですよ。朝起きて最初にやることが、パソコンの前に座ってメールを確かめること。しかも、それが普通になったのは21世紀になってからです。そういった大変化にどう応えるか、どう動くかということが、今もまだわからない状況にあるということではないか。

暫定的にであれ座標を描いて、「ここにこういうことがある。ここにこういう人がいる」と位置づけてゆくようなエディターシップを発揮する存在がいなくなった、社会や世界を展望するような視点がなくなったわけです。

今、「昔は綺羅星のごとく作家が並んでいた」と片山さんが言われたけれど、その根源を探っていくとマルクス主義の存在が大きい。宗教なみに明瞭な未来像というか一種の予定表、一種の地図を提供していた。

詩人も作家も評論家も、批判するにしても見取り図があったほうが話は早い。誰もが座標軸を与えられ、自分がどこにいるかわかっていたつもりだった。各種の日本文学全集もそのノリで作られていた。

そういう、1950年代、60年代にはあった、マルクス主義の存立基盤が、社会主義の崩壊でなくなってしまった。1989年の天安門で何が起こったか。80年代末から90年代初頭にソ連で何が起こったか。そういったこと全部が関連するし、非常に興味深いことに、それはパソコンやスマホの普及とも陰の部分で連動しているということです。

「失われた何十年」言説

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田所 構図が大きくて大変面白い指摘です。マルクス主義は、欠点はたくさんありつつも、日本の知識人が世界を解釈する際の枠組みとして長らく機能していました。そういった大きな枠組みなりイデオロギーなりが無くなり、皆が小さな世界に内閉しがちになっています。

先ほど三浦さんが「エディターシップ」とおっしゃったけれども、社会を全体的に俯瞰して、演出して、そういう人たちにどうやってチャンスをつくり、創造力を発揮してもらうか、そういう新しく大きな枠組みや思想がないじゃないか、ということですね。

それほど勉強熱心な学生ではなくても、なんとなくマルクス主義を知っているのは、私の世代がおそらく最後です。大学の授業で、私は学生に「マルクス主義ではね、生産力とか生産関係というものがあってね」と、そこから説明しないとダメなんです。

そういうある種の無思想状態もしくは脱イデオロギー的状態になっていることをどう考えるべきなのか。今や30代の人ぐらいまでは、「失われている、失われている」と「失われた何十年」のなかで育っています。その人たちがこれからの日本の創造を担っていくわけですね。

ただ、僕はこの「失われた」という言い方がどうも気に入らない。「その前は失われていなくて、昔は良かった」という懐古趣味になってしまい、そういう総括のあり方でいいのかと疑問です。

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