アステイオン

論壇

専門家と一般市民の「溝」は40年前よりもはるかに深くなった...「知のエリートの復権」を再考する

2024年09月11日(水)11時05分
西村博一(「フォーサイト」編集長)

西部邁は『アステイオン』4号掲載の「言論の品位を侵すもの」において、「相対主義は疑念ばかりを極大化させて、信念を極小化する」と記したという。〈それは「価値を空洞化するという危険」も伴っていると西部は憂慮している〉(米田亮太氏「論壇誌という『場』」、『アステイオン』100号より)。

この西部の憂いに、たとえばロシア・ウクライナ戦争をめぐる"どっちもどっち論"――NATOの東方拡大がロシアをして危機感を覚えさせ、ウクライナへの防衛的侵攻に踏み切らせた。つまり、ロシアにも一理ある――という腰軽な多様性肯定との繋がりを見るのは、さほど突飛なことではないはずだ。

相対性の視線は各アクターの内在論理を捉える上で不可欠だが、わかる......では済まない価値の判断と行動選択を、現実は私たちに突き付ける。佐伯啓思氏が〈「知識人とは何なのか」「思想は意味を持つのか」という問いは、ある切実な実感を伴っていた〉と回想する80年代の思想的風景は、まさに同氏も伝えるように、今もまったく色あせない。

ただし、メディアが現実と向き合うための方法論は、かつてと同じでは済まされない。東日本大震災と福島第一原発事故、新型コロナウイルス禍など、この40年にメディアが信頼を失うきっかけは幾度もあった。

それは誤報や誤解、あるいは私たちメディアの知見不足によるところも大きいが、そもそも「ニセ情報に気を付けろ」と注意喚起を行う傍らで、「当方だけはホンモノだ」と唱える勝手は通らない。メディアリテラシーが上がるほど、まさに西部が語ったように、相対主義が疑念を極大化させる。

信頼失墜は知識人・専門家の方も変わらない。未知のウイルスのリスクを正確に言い当てることなど誰にとっても不可能だ。にもかかわらず、世論はそれを"専門家の嘘"だという。明日の株価暴落を予見できないアナリストなど専門家とは言えないと指弾する。山崎正和の見た専門家と一般市民の離間は、いまや40年前よりはるかに深い。

ただ、それは逆説的に、粕谷一希のいう「知的階層秩序」の再建が渇望されていることも示しはしないか。確かにネット上は玉石混淆、"石"の言説も溢れるのだが、陰謀論の大半がディープステートのような母型の物語を持つように、石の言説もまた依拠する階層秩序を必要としている。

ここに知識人の専門知が、現在の文脈の中で召喚される。専門知による現実解釈あるいは見立ては、おそらく根源的に求められている。渡辺一史氏がノンフィクションライターの立場から鋭く証言するように、専門知は現場の力によって、しばしば「木っ端みじんに」(渡辺氏)吹き飛ばされる。だが、それは知の母型を生み出す者としての知識人・専門家の役割を否定するものではないだろう。

であれば可能な限りよき母型を、内外情勢に即応して。「少し様子を見たい」という筆者に「いいや、いますぐガチな論考を」と「フォーサイト」編集部が食い下がるのには、以上のような本誌なりのアカデミック・ジャーナリズムの模索がある。筆者のご負担を思うと身の縮む思いである。


西村博一(Hirokazu Nishimura)
1970年、千葉県佐倉市生まれ。東京大学文学部英語英米文学科卒業後、94年に新潮社入社。96年から2006年まで「フォーサイト」編集部に所属。文庫編集部、文芸出版部、小説誌「yom yom」編集長などを経て、21年より「フォーサイト」編集長。


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 『アステイオン』100号
  特集:「言論のアリーナ」としての試み──創刊100号を迎えて
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