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創刊100号の記念特集を読むと、『アステイオン』には一見したところ矛盾にも感じられる二つの問題意識が初めから共存したことがよくわかる。
一つは、たとえば林晟一氏が創刊時の編集長・粕谷一希の言葉から引く「知のエリートの復権」の試み。粕谷はそれを「知的階層秩序」の再建と表現した。
二つめは、鷲田清一氏が粕谷と同じく創刊メンバーだった山崎正和の懸念として挙げている、専門家と一般市民の離間である。それは両者をつなぐものとしてのジャーナリズムの機能不全として意識される。『アステイオン』が、いわゆるアカデミック・ジャーナリズムを常に重視してきた理由であろう。
知は秩序立てられるべきなのか、あるいは等価でフラットな場に開かれるべきか。大学教授が女子大生に資本主義よって消費される性を語り、その女子大生が消費される悲しみを訴えながらテレビに水着で現れる80年代後半の混沌を思えば、この問いがアナーキーな時代性を色濃く映したことは理解できる。そしてここでの「秩序」は、「等価でフラット」を引き受けながら、昇華すべきものだったことも理解できる。
福嶋亮大氏の言う『アステイオン』の後衛性は、この「新たに引き受ける者」の覚悟でもあったろう。「フォーサイト」が会員制の国際政治経済情報誌として創刊されたのは1990年、『アステイオン』とほぼ同時代の誕生だ。当時、言論あるいはジャーナリズムの荒廃を危惧する意識は、アステイオンよりもだいぶ一般寄りの立ち位置にある総合出版社にも確かにあった。
それは、私が最初に「フォーサイト」に配属された90年代半ばも生きていた。「メタレベルでは」などと言おうものなら、「メタって何だ。説明せよ」と創刊編集長は難詰した。彼の脳裡に、役に立たない知的遊戯に終始するお洒落な仮想敵がいたことは疑いない。
ゆえに当時の「フォーサイト」は、識者の対談企画はNGであった。それは相手のネームバリューに頼る知的怠惰の産物であり、必ず編集部自身の着想から出発しなければならなかった。
相対性の指摘だけで終わらせず、自らの責任で言い切るべきだ。オピニオン誌ではなく、リアルでジャーナリスティックな「情報誌」を掲げたところに、『アステイオン』とはまた違った形の「知のエリート」であろうとした「フォーサイト」の意気込みがあるのだろう。
知識人を裸の王様だと嘲笑しつつ、その権威を否定することで我が身を権威化する振る舞いは、メディアの誰にも覚えがあろう。これと「自分が理解できないことは一般人も分からない」と見なす独善的な分かりやすさ主義が結びつけば、業界には小さなポピュリストがひしめき出す。知識人不信と切り離せない「フォーサイト」創刊の意識も、反知性主義の悪しき借用からさほど遠いものではなかったのかもしれない。
だが一方で、冷戦終焉をベルリンの壁崩壊というリアルな光景で目撃し、遠い海の向こうの湾岸戦争で日本の責任あるコミットメントが問われた当時、私たちが高坂正堯らの現実主義を初めて本当に認識し(メディアはいつも気付くのが遅いのだ)、相対化では足りないとつくづく実感したのも事実ではないか。
vol.101
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