小川 私はバブル崩壊後のいわゆる氷河期世代ですが、鷲田さんやトイアンナさんの世界観も何となく理解できます。
インターネット普及の初期には、世界がフラットになっていくようなイメージがありましたが、実情はより複雑で、多様ですよね。
私の専門であるタンザニアは、かつては現地に行かないとインタビュー調査ができませんでしたが、今ではスマートフォンで簡単に話を聞くことができるなど、この20年で大きく変わりました。
しかし、それぞれの地域のコミュニケーションの在り方の延長線上にデジタル・コミュニケーションが形作られており、日常的な「対話の遊戯」がSNSにも引き継がれていることを見ると、世界で暮らす人びとが完全にフラットにつながっているわけではありません。いまなお、世界と日本の人々は、まったく異なる技法のなかでコミュニケーションを取り続けているのだと思います。
田所 インターネットで世界は思われていたようにはフラットにならなかったというご指摘は興味深いですね。
かつて新聞や論壇誌といった媒体で大学知識人やジャーナリストが発言や発表をしてきましたが、今やSNSでは誰でも発言できます。そして、そこに生成AIが登場し、YouTubeのように映像表現も台頭し、きわめて大衆化した形で言論活動が繰り広げられています。この点についてはどうでしょうか?
トイアンナ 言論活動は個人と権力の間で、反発と和解が繰り返されてきた歴史という捉え方もできると思います。かつての権力は国家でした。しかし、今はXやGoogleなど巨大テック企業が権力となり、個人の思想や表現の自由と衝突しています。
運営ポリシーに違反すれば即「BAN」(アカウント凍結)されますし、絶対に話せないテーマもあります。ですから、フラットで大衆化したように見えて、言論をめぐる闘争は現在も続いています。
他方、38年前よりも人々が個人主義的になったことは確かだと思います。オープンな言論空間は殺伐としていますが、クローズドな言論空間である「サロン」が多く存在し、翻訳機能の向上によって言語を超えた人々のつながりも容易になりました。
そこでは異なる意見を聞きながら、自分の意見も言える場所ができました。その意味では、今はかつてないほどに言論の自由が花開いた時代と言えるかもしれません。
田所 私がほぼ最後の世代になると思いますが、マルクス主義を肌で理解できた時代がかつてありました。そういう呪縛や常識がなくなって、さまざまな言論空間が成立できるようになったことは望ましいということですね。我々の世代とは、まったく異なる世界が現在、展開しているように感じています。
トイアンナさんが先ほどご指摘された多くのサロンと、そのグループ内部で豊かなコミュニケーションが生まれていることはいいことだと思います。一方で、そのサロンやグループ同士をつなぐ装置はあるのでしょうか?
トイアンナ サロン同士がつながることは残念ながら、なかなかありません。異なる思想や思考を持つグループ同士が喧嘩せずに、同じ皿に載る装置は『アステイオン』をはじめとする論壇誌なのだと思います。そういう意味では紙の論壇誌の重要性は今後、ますます大きくなっていくと思います。
※後編:インターネット上の「黒歴史」は削除できる...デジタル時代に紙で文字を残し続ける意味とは? に続く
小川さやか(Sayaka Ogawa)
立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。1978年愛知県生まれ。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科一貫制博士課程指導認定退学。博士(地域研究)。専門は文化人類学、アフリカ研究。著書に『都市を生きぬくための狡知――タンザニアの零細商人マチンガの民族誌』(世界思想社)、『チョンキンマンションのボスは知っている─―アングラ経済の人類学』(春秋社)、『「その日暮らし」の人類学―─もう一つの資本主義経済』(光文社新書)など。
トイアンナ(Anna Toi)
恋愛・キャリア支援ライター。1987年生まれ。慶應義塾大学卒業後、外資系企業にてマーケティングに携わり、フリーライターに転身。専門は就活対策、キャリア、婚活、マーケティングなど。著書に『改訂版 確実内定』(KADOKAWA)、『モテたいわけではないのだが』(イースト・プレス)、『ハピネスエンディング株式会社』(小学館)、『弱者男性1500万人時代』(扶桑社新書)など多数。
鷲田清一(Kiyokazu Washida)
大阪大学名誉教授、サントリー文化財団副理事長。1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。哲学・倫理学専攻。関西大学教授、大阪大学教授、大阪大学総長、京都市立芸術大学理事長・学長などを歴任。著書に『分散する理性』、『モードの迷宮』(ともにサントリー学芸賞)、『人称と行為』、『だれのための仕事』、『〈ひと〉の現象学』、『メルロ=ポンティ』、『「聴く」ことの力』(桑原武夫学芸賞)、『「ぐずぐず」の理由』(読売文学賞)、『所有論』など。
田所昌幸(Masayuki Tadokoro)
国際大学特任教授、アステイオン編集委員長。1956年生まれ。京都大学法学部卒業。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス留学。京都大学大学院法学研究科博士課程中退。博士(法学)。姫路獨協大学法学部教授、防衛大学校教授、慶應義塾大学法学部教授を経て、現職。慶應義塾大学名誉教授。専門は国際政治学。主な著書に『「アメリカ」を超えたドル』(中央公論新社、サントリー学芸賞)、『越境の国際政治』(有斐閣)、『社会のなかのコモンズ』(共著、白水社)、『新しい地政学』(共著、東洋経済新報社)など。
『アステイオン』100号
特集:「言論のアリーナ」としての試み──創刊100号を迎えて
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
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