アステイオン

対談

ヨーロッパは自由、平等を米先住民から学んだのに隠した...デヴィッド・グレーバーの遺作『万物の黎明』から受けた「知的なパンチ」

2024年08月07日(水)10時25分
小埜栄一郎+松田史生

松田 自然科学の歴史とは、いろいろな現象を統一的に説明するシンプルな理論体系が構築され、万物の理論となることが期待されます。しかし、やがて説明しきれない現象が見つかり、無視できないくらいの証拠が積みあがると、新しい理論体系が再構築される、というパターンの繰り返しです。

「例外として無視できないくらいの証拠」というのは、学問の作法にのっとり、検証可能な形で提出され解釈されたものであり、自然科学でも考古学でも同じです。なので、本書で提出される考古学的資料の取り扱いにも違和感はありませんでした。

小埜 再現性を強く要求される自然科学分野と、その困難さから再現性を強く要求されない歴史分野にも共通点があります。

松田 自然科学でも人文・社会科学でも、理論とは、現状の知見をもとに構築された仮説にすぎず、いつか反証されて新たなより包括的な理論に至る、捨て石の一つとなることが期待されています。

しかし理論や仮説には、それを作った人類、または西洋社会、あるいは白人や男性といったカテゴリーの人たちが持つ無意識の願望や欲望が反映されがちです。さらに、理論や仮説のわかりやすさと心地よさに安住すると、捨て石の一つである、という謙虚さが失われてしまいますよね。

ですので、グレーバーのように「われわれが見ている世界には、自分たちの無意識の願望や欲望のバイアスがかかっており、われわれはそれに気づかないまま集団的に多くのものを見落としている。では、われわれが見落としているものとは何か? 無意識の願望とは何か?」という問い立ては必要です。

小埜 恣意的なバイアスに加え、無意識の偏向を問う、これは重要な視点ですね。

松田 しかし、もし本書に1つケチをつけるとすると、図版や説明資料の少なさです。とくに自然科学系の論文では、理解を助ける図表が大事です。図がメインで文章がその補足ということも少なくありません。

一方、『万物の黎明』は、世界中の先史時代の遺跡を1万年以上のスパンでわたり歩くにもかかわらず、取り上げたすべての遺跡の年代や位置を示した年表や世界地図などがなく、今一つイメージしにくいと感じました。

小埜 グラフや図に語らせることに拘りがないですね。これは自然科学系と人文学系の作法の違いかもしれません。

松田 例えば、158ページにでてくる紀元前1600年頃にネイティブ・アメリカンが建造した「ポヴァティ・ポイント(poverty point)」という遺跡は、Google Mapで調べると草原に作られた同心円上の構造であることがわかり、さらにストリートビューで遺跡の中を歩くことができます。

また、同じ頃にクレタ島にあったミノア文明では成人女性による支配システムがあったようなのですが、Googleで調べると出てくる当時の少年のフレスコ画を見ると一目でなるほどと思ってしまいます。

小埜 多くの図版や写真が掲載された図解版はニーズが高いのではないでしょうか。デジタルではなく、書棚から飛び出すような、重厚で内実共に規格外の画集・図録があるといいです。

松田 訳者の酒井氏による本書の解説本『グレーバー+ウェングロウ『万物の黎明』を読む』(河出書房新社)も楽しみですが、「万物の黎明フォトブック」のような写真と図表をまとめた副読本も出てくると嬉しいですね。

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