というか、そもそも創刊号の広告から想像される読者イメージ自体が、雑誌側が作り出した理想、いや幻想だった可能性すらある。
最後にちゃぶ台返しをするようだが、出稿された広告群が示すのは『アステイオン』読者の実像ではなく、あくまでも本誌が訴求したいと考えたターゲット像にすぎない。それが現実の購読者と重なっていたのかは、かなり怪しい。
つまるところ、ニューアカの香りが残る時代から、じつは『アステイオン』は一度も「カッコイイ」もの──ちょっと背伸びして抱えてみたい雑誌──ではなかったのかもしれない。
本誌に限らず、「知的」なメディアは往々にして、「そう見せたい」という送り手側の願望が前景化しがちだ。
商業誌ではなく社会貢献という大義があると悠長にかまえている間に、貢献すべき「社会」のほうが猛スピードで変容する。これはアカデミズムに身を置く者として、当然自戒も込めている。
ジャーナリズムであれ、アカデミズムであれ、それが知性を信頼したいと切望する人々のよすがであるためには、少なくとも「上から目線」(エラそう)から「カッコイイ」(憧れ、背伸びしたい)への転換が必要である。
その道中は、「知的ジャーナリズム」が党派性に縛られた(エラそうな)論壇人の独壇場たる「論壇(誌)」から脱却し、別の途を示すプロセスと重なる面もあるだろう。
今後、もし "アステイオンを小脇に抱えることがカッコイイ"、といった知のファッション化の時代が訪れたとしても、それを嗤っていられる余裕は「知的ジャーナリズム」にも「論壇」にもない。
むしろ大いに歓迎すべきである。知的上昇志向が冷笑され、「使えない知」の居場所が失われつつある状況よりも、それはだいぶマシ、と言えるからだ。
大尾侑子(Yuko Obi)
1989年生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程満期退学。博士(社会情報学)。桃山学院大学准教授を経て、現職。専門はメディア史、歴史社会学。著書に『地下出版のメディア史──エロ・グロ、珍書屋、教養主義』(慶應義塾大学出版会、第9回内川芳美記念メディア学会賞、第44回 日本出版学会賞奨励賞)、『ポストメディア・セオリーズ:メディア研究の新展開』(共著、ミネルヴァ書房)など。
『アステイオン』100号
特集:「言論のアリーナ」としての試み──創刊100号を迎えて
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
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