そんななか「使えない」知識と向き合い、没入する時間は、男女共働きで賃労働とシャドウワークに明け暮れる生活のなかで捻出困難である。
要約コンテンツが歓迎されるのは、そこに経済合理性があるからだ。いよいよスノッブを気取ることの効能は失われていく。
したがって、『アステイオン』創刊当初のように、「日本(にいるわれわれ)は世界においてどうあるべきか」などと大局的なことを考える余裕もない。
人々はハンバーガーチェーンの値上げについて語り、今日のランチになにを食べるか逡巡する。この生々しい生活のなかに、ようやく自分の足元を見ることができる今、「知的ジャーナリズム」は実生活から乖離した、親しみの湧かない贅沢品だ。
そのうえ、SNSをひらけば、「知」は暴力的ですらある。やかましくて、交戦的で、感情的対立を生む火種のようだ。
どこから飛んでくるかわからない言葉の刃物に怯え、他者との対話を断念する人もいるだろう(『ふてほど』の向坂サカエの職業設定が、「やっかい」な女性のシンボルのように使われているとしたら、社会学に関わる一人として、それを自嘲するだけでなく、そうしたメディア表象にこそ実直に向き合いたい)。
「鈍く感じ、固く考える」風潮が支配し(フィルターバブルとエコーチェンバー)、人々を一層そのような方向に誘引していくアルゴリズム機能のなかで、『アステイオン』のキャッチフレーズである「鋭く感じ、柔らかく考える」ことは容易ではない。
では、音声や映像といった五感を刺激し、情動に強く訴えるデジタルメディアが氾濫する現代社会で、「文章=活字」を主戦場とする「知的ジャーナリズム」が再生、ないし延命するためには、なにが鍵となるのだろうか?
それはまずもって、冒頭で掲げた学生のなにげない一言、「同じメッセージを伝えようとしても、どうしても文章って映像よりも "上から目線"になっちゃう」という感覚と真摯に向き合うことだ。
これを「大衆」の無教養などと軽視している以上、当該メディアは自称インテリ(これも死語だろう)による、インテリのための内輪の営みに終始してしまう。
もとより「大衆」は相手にしていないという意見もあろうが、「知的ジャーナリズム」や「論壇(誌)」が、その傲慢さを高潔さと履き違えているうちに、送り手が想定する「理想の読者層」の実態を伴わなくなったのではないか。
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