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文学

なぜ日本の「国語の教科書」に外国文学作品が載っているのか?

2024年07月03日(水)10時53分
秋草俊一郎(日本大学大学院総合社会情報研究科准教授)

「銀の皿」挿絵

ユーゴ―「銀の皿」挿絵 五十嵐力編『純正国語読本 改訂版 巻五』早稲田図書出版社、1938年 広島大学図書館 教科書コレクション画像データベース


「銀の燭台」として題名・内容ともに定着するのは、戦後、アメリカの監督の下で作成された中学校の国定教科書に採用されて以降のことである。

「銀の燭台」は戦後も長く定番教材として国語教科書で使用された。現在は国語教科書には載っていないが、大幅に抄訳・エピソード化されて、「許すことのとうとさ」を教えるため、小学校の道徳の教科書でいまだに教材として使用されている。

「銀の燭台」以外にも国語教材から道徳教材に転用された外国文学作品はO・ヘンリー「最後の一葉」やイワン・ツルゲーネフ「うずら」や、オスカー・ワイルド「幸福な王子」。また、意外なところではフョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の一部まで枚挙にいとまがない。

著作権を気にしなくていいうえそもそも遠い海の向こうの出来事である外国文学作品は、翻案してエピソード化するのに向いていたのだ。

ことほどさように、明治以降導入された外国文学教材は私たちの言語や精神のかたちを規定する役割を果たしてきた。

文学作品は、登場人物への同化や共感をさそうという点で、読者の内面に価値観を自然に刷り込むことができる。

外国文学が児童生徒に刷りこんできた「かたち」、それはきわめて雑駁な言い方をしてしまえば、「近代」というのものだった。そして外国文学教材がつかわれたのは国語だけでなく、英語や道徳(修身)といった科目も同様である。

そういった作品には途切れながらもなかには数十年以上にわたって教科書に掲載されつづけ、日本文学作品以上に「国民的」な読み物として世代を超えて人々の記憶に刻まれつづけているものもあるのだ。


秋草俊一郎(Shun'ichiro Akikusa)
日本大学大学院総合社会情報研究科准教授。専門は比較文学、翻訳研究。2004年、東京大学文学部卒業。2009年、同大学院人文社会研究科博士課程修了。博士(文学)。著書に『アメリカのナボコフ――塗りかえられた自画像』(慶應義塾大学出版会)、『「世界文学」はつくられる――1827-2020』(東京大学出版会)、訳書にドミトリー・バーキン『出身国』(群像社)、アレクサンダル・ヘモン『私の人生の本』(松籟社)ほか。「「世界文学全集」の比較対照研究」という研究テーマで、サントリー文化財団2013年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」に採択。


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