『ジュリアス・シーザー』の「アントニーの演説」は、シーザー暗殺後、棺を前にしてブルータスとアントニーがそれぞれローマの民衆に自分の正義を訴える場面だ。
『ヴェニスの商人』の「法廷の場」は、書面に基づいてアントーニオの肉を求めるユダヤ人高利貸しのシャイロックが、ポーシャ扮する法学者と議論を闘わせる場面である。
「アントニーの演説」(「棺前の演説」「シーザーの死」のような題もある)は、人の心を動かす演説の技術に、「法廷の場」は、法廷のような公開の場で、相手を打ち負かす討論の技法に、教材の力点がそれぞれ置かれている。
こうした教材が栄えた背景には、演説のような言論活動が自由民権運動や女権運動との関わりで教育上も重視されていたが、日本文学にそれらを効果的に描き、なおかつ教材としての使用に耐えうるものがそもそも少なかったことが考えられる。
しかし、人心をつかむ演説も論敵を打ち負かす討論も近代的な国家には必要不可欠なものだ。
いまでは想像が難しいが、こうした「名作」からかつての日本人は言論のいろはを習得しようとした。そして『ジュリアス・シーザー』も『ヴェニスの商人』も、戦後になっても言語活動の実践を重んじる経験主義の影響もあって、長く教材としての命脈を保った。
他方で『レ・ミゼラブル』の「銀の燭台」は、言語活動というよりは道徳・倫理に力点が置かれた教材である。これは、出獄したジャン・バルジャンが泊めてくれる宿もなく困っていたところ、教会でミリエル司教に出会う場面の抜粋である。
ミリエル司教はみすぼらしい身なりの怪しい男を銀の食器で最大限もてなす。しかしジャン・バルジャンはそれに応えるどころか、夜になると食器を教会から持ち逃げしてしまう。
翌日、ミリエル司教は憲兵に捕らえられて引きだされたジャン・バルジャンを許しただけでなく、食器に加えて、銀の燭台も持ってこさせて手渡す。司教は呆然とするジャン・バルジャンに、新しい人間として生まれ変わることを諭す。
ここでは明らかに、貧しいものに対する哀れみや、因果応報の論理に主軸を置く近世道徳の域を超えて、神の存在を前提にしたキリスト教的な博愛の精神が打ち出されている。
また罪人に対する赦しや更生といった理念もうかがうことができる。西洋やその近代を理解するためにはこういった教材を用いて、その宗教的な心のかたちすら取り入れる必要があったのだ。
とはいえ戦前には、ジャン・バルジャンが教会の物品を盗む描写は問題だったのか、「銀の皿」「同胞兄弟」のような題名で、ミリエル司祭がジャン・バルジャンを銀の食器でもてなす場面までの採録のケースも多かった。
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