記念号で多くの書き手が、早くて浅い理解を求めるのではなく、わからないことに向き合うこと、答えようと努力する営みの重要性を説いていたことに、深い共感を覚えた。
50人を超える執筆陣が、一冊の雑誌に名を連ね、共通のテーマを論じていること自体、とても価値のある企てだ。
『アステイオン』が創刊された1986年から論壇の第一線で活躍していた大御所から、当時は生まれていなかった若手まで、年代も専門分野も実に多彩で豪華な顔ぶれである。
表紙や目次から、気になるタイトルや論者の名前を見つけ、好きな順番とタイミングで読み進め、立ち止まって考える。
独立して書かれたはずの論考と論考の間に、それぞれの書き手が予期していなかっただろう共通項や響き合いがあふれてくる。読み手の思索を、どんどん膨らませてくれる。
残念なことに、現代社会は、自分のペースで情報に向き合い、思索の手がかりを探す時間的な余裕が加速度的に減っているように思う。
論考の一つで宇野重規は、SNSの普及に伴い、日々新たな情報に一喜一憂し、それを瞬時に忘れ、じっくりと課題に取り組むことがない社会は「過敏で鈍感」であると指摘している。
持続的な意思を持ち、粘り強く議論を続けていく「公論」の場が不足していることが背景にあるという分析には、うなずくしかなかった。
そこに、これまでも、今も、そしてこれからも、総合誌のなすべきことが凝縮されているように感じた。
編集長としての2年間で痛感したのは、「評価されること」と「売れること」とは、必ずしも一致しないという、当たり前だが「冷徹な現実」である。
全国紙などの論壇時評で、雑誌の特集や企画が一本でも多く取り上げられ、快哉を叫んでみても、売り上げがついてきていないということは、何度もあった。
そんな時、『アステイオン』初代編集長で、『中央公論』の編集長も務めた粕谷一希が「人生をいかに生きるべきか」「社会はどうあるべきか」「世界にはどういう意味があるか」といった根源的な問いを発するのが、アカデミズムとジャーナリズムの両方を担う総合誌に必要な思想だと語っていたという逸話を、記念号の河合香織の論考「自由な知的ジャーナリズムの探求」で知った。
vol.100
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