マクミラン このあいだ、ある歌を「あなたが去年出会った桜、恋していた桜がまた咲きましたよ」というふうに訳そうとしたら、一緒に翻訳をしている茂野智大さんが「あなたが出会った桜じゃない。桜があなたに出会ったんだ。主語は桜。桜があなたに出会って、あなたに恋をして、あなたのためにまた咲いていますよ、という意味だ」と教えてくれました。
それでは全然違うじゃないですか。自然を擬人化するということですね。英語でも擬人化しますよ。例えばワーズワースの「I Wandered Lonely as a Cloud.(私は雲のようにさまよった)」。
この場合、ある人が外にある自然を見ています。でも、今言った『万葉集』の歌は「桜の木が人間に恋をしている」というのです。
上野 擬人法とか擬人化と言うと特別に思いがちですが、それは「物は主語にならない」ことを前提としているからで、「物が主語になる」ところでは擬人化は普通です。
面白い例があります。持統天皇の「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山」(『万葉集』巻一の二八)。
最近の研究では、この訳は「春が過ぎて夏がやってきたらしい。天の香具山には白妙の衣が干されている」ではなくて、「天の香具山が衣を干している」でいい、というんです(鉄野昌弘「万葉研究、読みの深まり(?)─持統天皇御製歌の解釈をめぐって─」『季刊 明日香風』第百二号所収、飛鳥保存財団、2007年)。
「山が衣を干す」でいいと。
マクミラン 先生はどう思われますか。
上野 それでいいと思います。少なくとも中世にはそう解釈されていた。詩の言語というのは人間の歴史の古い思考法を伝えているものだから、「天の香具山が干している」でいいと。詩には確かに古いものを伝えるという側面がある。これもトランスボーダーですね。
マクミラン 美しいですね。そのほうが絶対に素敵だと思う。ちょっとパフォーマンスをします。持統天皇の歌を「香具山自身が衣を干す」というふうに即興で訳し直しました。吟じます。
Spring has passed
and Summer has come.
Mount Kagu
is airing on her slopes
her white summer robes.
藤原俊成が言ったように、発声したときの音とリズム感でその良さが感じられるような歌に訳す、ということを私は心がけています。
『百人一首』の歌は単純な自然の描写が多く、英訳してみると平凡な歌なのに、日本語で吟じると素晴らしく聞こえるものがありますね。
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