持統天皇の歌を即興で訳すマクミラン氏 すべて河内彩撮影
※第2回:万葉集は世界レベルの文学作品であり、呪術的な世界の記録として極めて優れている から続く
上野 文化の受容というのは、受容する側の文化の問題でもあるわけです。森鷗外が、「あなたはよくこれだけのすばらしい翻訳ができますね」と言われて、「それは日本語についてよく知っているからだ」と答えたという話がありますね。
マクミランさんは『万葉集』を英訳するとき、「これは英語の詩の伝統ではどういうふうに言うだろう」とか「ソネットの形式に近い形で訳そうかな」などと考えたりしますか。
私は、『万葉集』の注釈を進める際、ドナルド・キーンさんに相談に行きました。キーン先生は「日本人が書いた『万葉集』の注釈書の訳は訳じゃない。説明文です。説明文は要らないです」と言うのです。
そして、「詩は詩として訳さなきゃ駄目。読んだときに詩になっているかどうかが問題です」と厳しく言われました。ああ、そうかと思った。
張先生は、中国で古典教育をする際、現代の中国語に訳す必要はありますか。
張 書かれた時代によりますね。李白の「静夜思(せいやし)」のように、唐詩には訳さなくてもわかるものがあります。その美しさは現代人にも響いてくるのです。大半は現代中国語に訳さないと、わかりません。
上野 唐詩の形式は、作品によってはその美しさが今でもわかるのですね。『万葉集』の場合は、訳がまったくなくて済むものは5%ぐらいじゃないでしょうか。
マクミランさんも、いったん日本語の注釈を読んでから英訳するわけですよね。例えばオペラも、今のイタリアの人が聞いてわかるわけではなく、ちょうど歌舞伎のように、オペラ座で売っている台本を見ながら観劇していますね。
マクミラン 先ほどのミサの話もそうです。私が子供の頃はまだラテン語が普通でした。バチカン公会議後にすべて英語や各国の現代語になりましたが、今はまたラテン語で聞きたいという声があります。意味がわからないとかえって厳かに聞こえるからでしょう。
上野 マクミランさんが翻訳されている日本のさまざまな古典の英訳は、英語の文学関係者、英語の文学を勉強する人たちの財産になっていくだろうと思います。
『万葉集』についても、それ自体は中国の影響を受けて作られたものですが、『古今和歌集』はその『万葉集』を財産にしてできたのですから。文化とは、そういうものだと思うんです。
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